『ディオニュシオス 修辞学論集』
■修辞学との出会い(^^ゞ
かれこれ5、6年前のことだが、文系の大学院まで修了したという人と知り合った。「ご専門は何でしたか?」と尋ねたら、「修辞学です」という答えが返ってきた。えっ、しゅ、修辞学!?とあっけに取られているうちに(^^ゞその場の話題は別の方に移ってしまった。
その後、折に触れて、あのときどうして「修辞学ですか。もう少し具体的には、たとえば誰を扱ってらしたのですか?」と率直に尋ねなかったのだろうと残念に思っている。あのときのわたしは、「現代でも修辞学の研究室などというものがあるのか……」というレベルでびっくりしていたのだ。
しかしさらに突き詰めてみると、要するにわたしは修辞学というものがわかっていない。修辞学とは、何をするものなのだろう? 修辞学は中世のいわゆる自由七科(幾何学、数学、天文学、音楽、論理学、文法、修辞学)のひとつだが、他の六つの内容はそこそこ想像がつくし、科学史がらみでもある程度知っているのに対して、修辞学は言語表現にかかわる学問だということはわかっても、その先がわからない。いったい中世の人々は、具体的には何を勉強していたのだろうか?
とまあ、ずっとモヤモヤしていたところに、このたび(と言ってもちょっと前だが(^^ゞ)京都大学学術出版会の西洋古典叢書の一冊として、
- 作者: ディオニュシオス,デメトリオス,木曽明子,戸高和弘,渡辺浩司
- 出版社/メーカー: 京都大学学術出版会
- 発売日: 2004/08/01
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が出た。興味をそそられて、まずは解説(木曽明子、戸高和弘両氏による)をざっと見てみたら、これがまた面白く、ディオニュシオスの修辞学論を読んでみたいと思わされた。解説によると、ディオニュシオスが本書で取り上げている弁論家(弁論と修辞学の関係は後述)は、リュシアス、イソクラテス、イサイオス、デモステネスだという。また、イサイオスはデモステネスへの橋渡しという感じで、本質的にはそれほど重要ではなさそうだった。
わたしはこのうちリュシアスとイソクラテスを少しだが読んだことがあったので、デモステネスを読めば、一通り古代弁論家の重要人物には触れたことになるではないか! デモステネスさえちょっと読めば、古代弁論家について一定の展望が得られるというのなら、それはわたしにとってかなり意味がありそうだ(根拠なし(^^ゞ)。
というわけで、ディオニュシオスの本文を読む前に、デモステネスの弁論を一篇ぐらい読んでおくことにした。
- 作者: デモステネス,木曽明子,杉山晃太郎
- 出版社/メーカー: 京都大学学術出版会
- 発売日: 2003/07/01
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『デモステネス 弁論集4』には、(帯の文句によれば)「幼少で貧窮に陥りながら、不得手の演説を克服し、アテネ随一の弁論家となる。その門出を飾る珠玉の名品」とある。わたしはこの中から、「アリストクラテス弾劾」を読んでみた。
■リュシアス、イソクラテス、デモステネス
この三者について、ざっと感想を書いておく。
- 作者: リュシアス,細井敦子,安部素子,桜井万里子
- 出版社/メーカー: 京都大学学術出版会
- 発売日: 2001/07
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まずリュシアスだが、わたしは彼に非常に気に入った。フェアで清潔で論理的で説得力があり、こんな文章が書けたらいいのになぁ、と思ったほどだ。
- 作者: イソクラテス,Isocrate,小池澄夫
- 出版社/メーカー: 京都大学学術出版会
- 発売日: 1998/10
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イソクラテスは、一応これ↑一冊全部読んで、感銘を受けた。プラトンによるソピスト攻撃(ピロソポスを称揚してソピストを貶める)の影響でわれわれはソフィストという言葉に悪いイメージを持ってしまいがちだが、イソクラテスは終生自分をソフィストと呼んだ。わたしはイソクラテスの弁論作品(というか人となり)がずしんと胸に堪え、ソフィストという言葉の歴史についても考えさせられた。
というわけで、この二者は好きになったのだが、実を言うとデモステネスの「アリストクラテス弾劾」は、読後の後味が悪かった。文章の上手下手は別にして、ウソをついてまで世論を動かして自分の意図する方にもっていこうとする点で、「法廷でそんなことやっていいのか?」と素朴に思ってしまう。もちろんわたしは自力で「デモステネスの嘘」を見破る力などなく、解説および訳注を読みながらそれを知った。実際、歴史家たちも長らくデモステネスに嘘に騙されていたのだという。かくして、わたしはデモステネスに悪い印象をもった状態で、ディオニュシオスの『修辞学論集(古代弁論家)』を読むことになった。
デュオニュシオスは、上記4名の各論中、プラトンおよびトゥキュディデスにもかなり紙幅を割いている。わたしはこの二者はとりあえず読んだことがあるので、デュオニュシオスの議論はそれなりに理解できたと思う。そして、ディオニュシオスを読んで考えたことを、何回かに分けて書いてみたいと思う。
■弁論と翻訳
ディオニュシオスの内容に入る前に、翻訳ということについてひとことだけ書いておく。わたしが読んだ作品は、すべて西洋古典叢書の翻訳だ。弁論のように、その言語がもつ特性をフルに生かした芸術分野を知ろうというのに、翻訳ものを読んで何がわかるのか、と思われるかもしれないが、(そしてわたしも、何がわかるのかな?と考えてしまう面もあるが)、実際にディオニュシオスの各弁論家に対する評価を読んでいくと、わたしが邦訳から得た印象とあまりにもよく合致するので驚いてしまう。その理由は、
1 翻訳でも、伝わる部分は小さくない。
2 西洋古典叢書の翻訳はレベルが高い。
2の可能性が高いと思うが、1もあるかもしれない。この問題自体、興味深いことだ。