カンディード

カンディードヴォルテール作、植田祐次訳、岩波文庫
『『カンディード』<戦争>を前にした青年』水林章著、みすず書房


カンディードのことは、みなさん(読んでない人も(^^ゞ)、なんとなくご存知のことと思います。内容を簡単に要約するのは難しいのですが、有名な作品ですよね。


わたしもこれまで、必要に応じてあちこちつまみ読みしたことはあったのですが、読み通す動機はありませんでした。が、このたび思うところあり、ぼちぼち通読しました。


つまみ読みをしていたときは、(当然ながら)、それほどおもしろいとは思いませんでした。ヴォルテールの同時代に生きる人にしかわからないローカルネタや、ヴォルテールの饒舌さには強い印象を受けたのですが…。まあ、それだけでした。


しかしこのたび通読してみて、ヴォルテールの「本気」に圧倒されたのです。これは、ただごとではない、と思いました。いったいヴォルテールは、何をそれほど本気になっているのでしょうか。彼が言いたいことはいろいろあるのだと思いますが、ちょっとメタな感じで言うなら、奇しくも(というより当然、かも知れませんが)水林章さん、みすず書房の本の帯にある、「神に逆らって考えること」なのだろうと思いました。


欧米の少し歴史的な文章を見ていると、「自由思想」ということばがときどき出て来ますが、今日の素朴な感覚では、「自由」ということばはちょっと一般的すぎて、「?」なのではないでしょうか。ここでいう「自由」というのは、「宗教の教えからの自由」なのですよね。そういう「過激な思想」に対して、「ヴォルテール主義」というけなし言葉もあるらしく、今日のわたしたちにはピンと来なくなった、シビアな争点だったことが垣間見えます。


水林さんのご著書も、実は、少し前に読もうとしたことがあったのですが、『カンディード』の中から短い二カ所だけを抜き出して、細かく読み込んで行くというスタイルだったので、そのときは「おもしろいけど…ちょっと細かすぎる」と感じて、途中であいまいになってしまいました。


しかしこのたび、『カンディード』本文を通読し、ヴォルテールの本気に圧倒されてから水林さんの著書を再読すると、とても面白く、引き込まれるように読みました。「細かい」読みが、現に読解している部分だけでなく、『カンディード』のほかの部分にも共鳴するのですよね。


もしもこれから『カンディード』を読もうという方はいらっしゃいませたら、その直後に水林さんの本も読むことをお薦めしたいです。

……このたび冒頭に掲げたニ作を読んで、いろいろ考えさせられたのですが、具体的に書くのは難しいですね(^^ゞ 思ったことはたくさんあったのですが…しかし、うまく書けないからと言って書かないでいると、何も書けないので、書いてみました<(__)>

『カンディード』<戦争>を前にした青年 (理想の教室)

『カンディード』<戦争>を前にした青年 (理想の教室)

ホッブズとオオカミ

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。


たまたま岩波文庫ヴォルテールカンディードを読んでおりましたら、「人間は決して狼に生まれついてはいないのに、狼になってしまったからだ」という台詞があり、そこに注がついていたので訳者による注を読みましたところ、


イギリスの哲学者ホッブズの有名な寸言、Homo homini lupus(人間は人間に対して狼である)をほのめかしている。

と書いてありました。


えっ!? そんなことないよね、それってプラウトゥスに出てくる有名な台詞で、それ以来ずっと有名なんだよね?


と驚きました。今朝、くぐってみたところ、実は、ホッブズにはその通りの文章はないにもかかわらず、広くホッブズの創作として流通しているらしいですね!そうだったのか…

心の視力:オリバー・サックス

オリヴァー・サックスは映画『レナードの朝』の原作者としても有名ですが、だいぶ昔から、脳神経科医として見てきたさまざまな患者を題材に、知覚の世界の不思議な情景を伝える作品を書いています。


どの作品も、脳こそは、もっとも身近でありながらもっとも謎めいた、最後のterra incognitaなのかもしれない、と思わせる内容をもっているように思います。


実は、サックスの書くものは、ニューヨーカー誌が初出であることが多いので、わたしは初出のときにざっと読んでいる(全部ではないが)のですが、この『心の視力』には、特別な印象があります。


これまでずっとサックスは観察者の立場から、ある意味、淡々とさまざまなケースを紹介していたと思うのです。が、わたしは本書に含まれる「失顔症 face blind」という記事を読みはじめてすぐ、「えっ?」と思いました。というのは、題材がサックス自身だったからです。


サックスは、人の顔がわからないのだそうです。わからないと言っても、もちろん、目鼻だちは見えますし、美醜だってわかるのだそうです。それにもかかわらず、誰の顔かわからない。たとえば、何年も勤めてくれた秘書でさえ、街ですれ違ってもわからない。秘書を秘書だと認識できるのは、秘書の机に座っている秘書の声をした人…というような情報から判断しているからなのだそうです。


その症状のわからなさかげんというのも読みどころなのですが、わたしの記憶に今も残っているのは、次のようなエピソードです。サックスが以前、写真のような記憶力をもつ画家についての記事を書いたとき、ニューヨーカーの編集者から、「で、その人はどんな顔立ちだったのかな。読者はそういうことも知りたいんじゃないだろうか」と言われたんですね。それに対してサックスは、「それは、秘書と相談してみないと………」と答えたというのです。


つまり彼は、ニューヨーカーの編集者に、自分の症状のことを言っていなかったということです。なぜ? 言わなくてもやっていけるの? 言わないことに、どんなメリットがあるの? 言わないのが当たり前で、自然なことなの? 言ったほうが何かとスムーズに行くのでは? 


何が疑問だったのかうまく言えませんが、とにかくわたしは、サックスがニューヨーカーの編集者に何も言っていなかったということに驚いたのでした。


サックスは、もしかして、そのことを負い目に思っていたのでしょうか?


いろいろ考えさせられます。
観察者と観察対象が交錯する、特別な一冊となっていると思います。

心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界

心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界

bluebacks 相対論&量子論

アメリカ最優秀教師が教える 相対論&量子論』(講談社ブルーバックス、スティーヴン・L・マンリー著、スティーヴン・フォーニア絵、吉田三知世訳)に絡めて、量子論について(?笑)少し述べます。

アメリカ最優秀教師が教える 相対論&量子論―はじめて学ぶ二大理論 (ブルーバックス)

アメリカ最優秀教師が教える 相対論&量子論―はじめて学ぶ二大理論 (ブルーバックス)

わたしは昔、非常勤として、工学部の学生に物理学概論、医学部の学生に現代物理学を教えたことがあります。工学部の場合、とにかく計算して答えが出せるようになってもらわなければならないので、力学も電磁気も光学も、演習問題や例題を重視しながら標準的な教科書を使って講義することができました。しかし医学部の場合、ほとんど「一般教養」です。ポピュラーサイエンス的な内容が期待されているのです。その目的に合うちょうどよい教科書がなかったので、結局、自分で(泥縄で)ノートを作りながら、特殊相対性理論量子論をやることにしました。


その講義準備のときに痛感したのですが、特殊相対性理論は簡単ですが、量子論は非常に難しいです。


自分が学生のときは、量子論が難しいということに気づく前に、量子論に慣れてしまいました(笑)。でも人に説明しようと思うと、発端のところで、どうにもこうにも収拾がつかなくなったのです。説明しなければならないことが、芋づる式にでてきて(誤用?^^;)どこをどうゴマカスかで頭を痛めました。


…ゴマカスというのは半ば冗談ですが、そもそも量子論発端の問題意識が、とても一九世紀的問題意識なんですね。一九世紀の産業構造と密着しています。(それに対して、相対性理論は、時間や空間という普遍的な概念が問題になっているので、時代によるギャップがありません。)


また、相対性理論は初めからほとんど完成形で、解釈もすっきりさっぱりしていますが、量子論は、今日にいたるまですったもんだが続いています。理学部・工学部の学生なら、「問題を解いて慣れましょう」という路線が使えますが、一般教養では、その手は使えません。


で、上述の『相対論&量子論』は、ひどい教師だったわたしとは対照的な、アメリカ最優秀教師の呼び声も高い、スティーヴン・マンリーさんの本です。ブルーバックスのなかでも比較的薄っぺらな本の中に、相対論と量子論の両方が取り上げられています。


ちなみに、割と最近(春ごろ?)、マンリーさんの新作(宇宙論visions of multiverse)を読みました。そのなかで彼が、「自分がお笑い芸人にならず、物理学者になったぐらいなんだから、物理学はおもしろいんだよ」みたいに言ってました。彼のそんなキャラクターが人気の秘密ではあるのでしょうが、しかしその人気も、物理を説明をするための周到な準備があればこそだと思います。


話を戻して量子論ですが、マンリーさんはこれまでの教育経験にもとづき、量子力学のどこが難しく、どの内容が大事なのか、また、Aを説明するためにはBの理解が欠かせないといったことなど、見た目以上に周到な準備をしています。どこを飛ばしてよいのか、どこは押さえておくべきなのかが、慎重に考えられていると思いました。


一例として、黒体放射の話をしてみます。


上述の本の第8章に入って(相対性理論が終わり)、いよいよ量子論の話がはじまたので、わたしは著者がどういう切り口で量子論を導入するのか、興味深々で読み進めました。すると、まず黒体放射について、次のような定義がありました。「調べている物体(熱した火かき棒)を黒い容器に入れて実験したので、その物体が放射する光は"黒体放射"と呼ばれました。」わたしはそれを読んで(冗談のように簡単化されていたので)、椅子から転げ落ちそうになるほどびっくりしました。


わたしは思わず、「黒体放射の定義として、そんな大ざっぱなことでいいの? そこまでゴマカスの? わたしが説明するのにあるほど苦労した放射平衡はどうなるの? そんなんで、ほんまにええんか? ええんか?」と、小一時間著者を問い詰めたい気持ちになりました。


しかし、気持ちを落ち着けて良く考えてみると、逆に、著者から次のように言われている気がしてきたのです。「"黒体放射"の第一時近似は、"黒い箱に入れた放射"ですよね?(笑) 違いますか? それぐらい思いっきり簡単化できないのなら、教養の現代物理学なんて教えられませんよ?(=だからあなたはダメなんです)」


実際、著者のいう通り(わたしの妄想ですが)…なのです。黒体放射のあたりで説明にもたついていると、量子力学の講義は、本題に入る前にコケてしまうのです…。


気持ちを取り直して読み進めていくと、量子論の導入にあたる第8章で、著者がやろうとしていることが、すぐに明らかになりました。著者はここで、恐ろしくも強烈なたとえ話をします。


「9:11で、ワールドトレードセンターの北側のビルに飛行機が突っ込んだとき、それを見ていたみんなは、事故が起きたと思ったに違いありません。しかし、その直後に、今度は南側のビルにもう1機の飛行機が突っ込んだとき、みんなは確信したのです。これは事故ではない、と。それと同じようなことが、物理学にも起こりました。プランクの放射公式だけでは、何が起ころうとしているのかよくわかりませんでした。しかし、アインシュタイン光電効果の論文が出たとき、物理学界は悟ったのです。光は粒子なのだ、と。この二つの仕事が、偶然であるはずはなかったの
です。」(文章記憶で書いています(^^ゞ)


つまり著者は、プランクの放射公式と、アインシュタイン光電効果の二つを、9:11(の墜落飛行機)になぞらえ、物理学界が「これはアクシデントではない、光は粒子なのだ」という、重大な歴史的転換が起こったということを、くっきりと印象づけているのです。そうしておいて、次の第9章では、「ド・ブロイの物質波」(物質の波でもある)を扱います。

8章は「光の粒子説」、9章は「物質波」――と、ひとつの章に重要概念をひとつだけ取り上げて印象づけるためには、黒体放射にかかずらってはいられないのですよね。


量子力学はやはり難しい、しかし…わからなくても知っておいてほしい。


本書を読んでも、やはり量子力学は難しいと思いました。とくに第10章の「解釈問題」は登場人物のうち何人かは、すっかり落ちこぼれていました…。


しかし、それは(=登場人物が落ちこぼれているということは)とりもなおさず、読者に対して、「わからなくてもいいんですよ。量子力学は摩訶不思議なんです。物理学者だって良くわかっていないんですから。でも、これだけは知っておきましょう」というメッセージを送っているのですね。


わたしは、それで(=本書のような取り扱いで)いいのだと思いました。量子力学をわかった気になるなんて無理なんです。なにしろ、物理学者にとってさえ、今も未解明な部分が(根本的なところで)残っているのですから。


著者は、(黒体放射についてはバッサリとごまかしたものの)、その他の部分は意外なほどていねいに量子力学の論理を積み上げ、発展の歴史を追っています。読むのはけっこう骨かもしれませんが、読み応えもあり、必要な情報をきちんと提供していると感じました。


■現代人に必要な物理学の知識を提供


量子論ばかり書いてきましたが、相対論についても、また別の観点から同じぐらい書くことができます。いずれにせよこの本は、


1 良く考えられた内容構成である。
2 現代人が新聞の科学記事を読んだり、テレビのニュース番組を見たりするとき、話についていくために必要な物理学の知識を提供している。(相対性理論量子力学に閉じるものではない。)
3 数式もたくさん出てくるが、良く消化されている。(下手な教師が未消化のまま数式に逃げているのとは違う。)


と言えると思いました。本書は、骨格こそ相対論&量子論ですが、じっさいには(特殊相対性理論だけなく、一般相対性理論にも視野を広げて)、場の量子論、標準モデル、ビッグバン宇宙、インフレーション、宇宙の進化…話が広がっていき、現代人に必要な物理学をそうまくりしています。新聞の科学記事や、テレビのニュースなどに出てくる話がなんとなくわかるためには、たしかに(=最終章で扱っているように)、ニュートリノ、ヒッグズ粒子、ビッグバン、宇宙背景放射…といった言葉を知っておかなければなりませんものね。


というわけで、いろいろ考えさせられ、勉強になった本でした。

THE NEW YORKER イーリアス新訳

THE NEW YORKERの十一月七日号に、イーリアスの最新訳(英語訳)に関する書評が載っていました。THE NEW YORKERの書評というのは、一冊ないし数冊の本を取り上げて、本の内容紹介だけでなく、その分野の状況とか歴史も紹介してくれるので、なかなか勉強になります。

このたびのイーリアスの最新訳に関する書評も、イーリアスの内容そのものから、イーリアス研究の歴史、イーリアスのさまざまな英訳についての紹介など、たいへん興味深く読みました。その中からいくつか、頭に残ったことをいくつか書いてみたいと思います。

イーリアス・ファンとしてのアリストテレス
まず、もっとも初期のイーリアス・ファンに、アリストテレスがいるということは知りませんでした。イーリアスは、トロイ戦争の話だと一般に思われていますが、(谷本さんへのコメントでも述べましたように)、驚いたことに、アリスの審判も、へレネの略奪も、アキレウスの死も、トロイの木馬も、トロイの陥落も出てきません(^^ゞ ではいったい、イーリアスには何がうたわれているのか…というと、読んだことのある人なら即答できるように(なにしろ、冒頭に宣言されていますから(^^ゞ)、「アキレウスの怒り」がうたわれているのですね。なんだそりゃ、看板に偽りあり、と思うかもしれませんが(そんなことを思うのは、わたしだけかもしれませんが(^^ゞ)、アリストテレスは「それで良いのだ!」と言っているそうです。

なぜなら、まず、上述の諸々を全部書いていたら膨大な量になるからです。「アキレウスの怒り」にフォーカスすることで、この作品は成功している。細部にわたって、「アキレウスを怒らせるとこうなる」ということが、実は丹念に織り込まれているのだ、その意味でたいへん統一的なのだ、ということみたいです。たしかに、言われてみればその通りかもしれません。

■ヘパイストス作のアキレウスの盾は、なぜあのデザインだったのか
これについて1パラグラフ、サックリ書いてありました。その内容は大体、「アキレウスが戦場に戻るとき、すなわち死に立ち向かうとき、彼は生のビジョンで武装するのである」という感じです。うーむ、なるほど…。

イーリアス翻訳の歴史
イーリアスギリシャ語は、
1 rapidily
2 plainness of syntax and diction
3 plainness of thought
4 nobility
の四つの要素をすべて実現させることが可能なんだそうですが、英語に訳すとなると、どれかの要素を選択して、あとは捨てる、ということをせざるをえないそうです。ただしひとつ例外があって、あのアレクサンダー・ポープ(ニュートンで有名な)の翻訳は、なんとか全部の要素を拾うことに成功しており、古今東西、あらゆる言語への翻訳のなかでも、もっとも優れたもののひとつだろうと書いてあります。へぇぇ…。

■で、最新の翻訳は?
Stephen Mitchellという人の最新の英訳が、どのような方針で訳されているかというと、M.L.Westという学者の説を、とことん採用したものだそうです。ウェストは、どの時点で何がつけ加わった可能性があるかということを慎重に検討しているのですが、ミッチェルはそれを厳格に捉え、「オリジナル」と思われる部分だけを残して、あとは思いきり良く捨てているのだそうです。

たとえば、(これはかなり衝撃的なのですが)、第十巻「ドローンの物語」は全部省かれているそうです。独立した物語なので、まあ、そうなのかな(=あとから付け加えられてのかな)、と思いますが、それにしても、わたしとしては残念です。何か異様に印象的な話ですので。

■オリジナル、ということ
イーリアスの「オリジナル」と言われて、多くの人は首をかしげると思います。要するに、(書評の筆者のたとえによれば)、イーリアスウィキペディアのようなもので、最初にアップされた時にどういう内容だったかは、あまり重要ではない、ともいえるからです。

                                  • -

キリがないので、このぐらいしますが、このニューヨーカーの記事を読んであらためて思ったのは、イーリアスってやっぱり大文学だ、ということでした。旧約聖書と同様、ぎょええええと思うこともたくさんあるけれど、やっぱり心を揺さぶられるのですよね。つぎはぎのキメラでも、見事なものは見事、ってことでしょうか。

だいぶ昔のことになるが、9:11のあと、日本のイスラム教関係者とイスラム学者有志による声明文というものをいただいた。今、手元にないので、どういう方々か署名しておられたのかはわからない。とにかく、「ムスリム=テロリスト」のような見方が広まっていることを懸念されて、何かしなければという思いで出された声明だったのだと思う。もちろん、「ムスリム=テロリスト」という図式はとんでもないことで、声明を出された方々の気持ちはわたしとしてもわかる。


しかし、その声明文のなかのワンセンテンスが、わたしの心に深く引っかかって、その後、時が過ぎるなかで折に触れ家庭内でも話題にし、「あれはいったいどういう意味だったのだろう、声明を出された方たちは、どういう気持ちで書かれたのだろう」と、ことあるごとに、繰り返し考えさせられられている。


その一文とは、イスラム教は、ほんとうは女性を大切にする宗教なのです」というものだ。(記憶で書いているが、ほぼこのママだと思う。短いセンテンスだった。)


いったいこれはどういう意味だろう? コーランが、女性を資産とみる文化のなかで書かれ、その文化から一方も出ることがなかったのは周知の事実ではないのだろうか? 夫に服従しない女は殴りなさいと書いてある。女には男の半分しか価値がないことや、女は男にとっては畑であるから、好きなときに入ってよいのは当然のこと(妻にはいついかなるときにもセックスを拒否する権利がない)と書いてある。要するに、「服従していれば、悪いようにはしない」、というのがコーランの教えである。


で、つい、声明を出された方々の心をいろいろ考えてしまうのだが、可能性としては

1 「コーランになんと書いてあろうと、現代のムスリム男性は、
   女性を対等の存在として尊重しましょう!」などとムスリム
  社会に向かって言うことは、現状、不可能なので、せめて外の
  世界に向かって詭弁を弄し、イスラム教に対するイメージを良
  くしようという苦肉の策。

2 女性に男子の半分でも価値を認めているんだから、女性を大切に
  しているではないか。資産としての価値をこれほど認めているの
  だから大切にしているのだ、と心底思っている。

3 その他


ともかく、声明書を出された方たちは全員男性だったのだろう。


でも、わたしたちは、「イスラム教は、ほんとうは女性を大切にする宗教なのです」と言われて、はいそうですかと信じることはできない。本当はどうなのかをまず知るべきだろう。実際、知ることからしか始まらないのでは?


というわけで、まずは多くの人に読んで欲しい一冊。


もう、服従しない―イスラムに背いて、私は人生を自分の手に取り戻した

もう、服従しない―イスラムに背いて、私は人生を自分の手に取り戻した

ソマリアに生まれ(この国では女児のほぼ100パーセントが性器切除を受ける)、サウジアラビアエチオピアケニア、オランダ、アメリカと移り住むことになった著者の経験と、目に映った光景を知るだけでも、わたしたちにとっては大きな価値があると思う。このような経験をこのように語ることのできる女性が、いかに希有な存在であるかも、本を読む中で、ずっしりと伝わってくる。


わたしとしても、彼女を全面的に支持するわけではないし、「不寛容に対する寛容は臆病だ」という彼女の言葉は、容易に不寛容な政治的立場の人たちに利用されてしまうだろうとも思う。


    しかし実のところ、彼女がこの言葉で言わんとしているのは
    家庭内で暴力を振るわれている女性を見捨てないで、
    女児に対する性器切除を放任しないで、
    女性にも学ぶ機会を与えて、ということであり、
    要するに、「目をつぶらないで!」という願いなのだが。

    
朝日新聞紙上でジャーナリスト松本一氏は、書評のまとめの部分で、

彼女の意見は先鋭なイスラム否定で、そのまま受け入れにくい部分も多い。しかし彼女が提起した問題は、グローバル化の中で世界のどこにでも現れてくる現象だ。オランダ社会が受けた衝撃は、他人事ではない。

と述べているが、それはまったくその通りだと思う。そしてまた、この本の最重要な部分は(=わたしたちにとってとくに重要なのは)、彼女を受け入れたオランダ社会が直面している問題に関する部分だとも思う。


しかし、ここで言われている「先鋭なイスラム否定」とは一体なんだろうか? 無理を承知で、現代日本のわたしの立場にスケールダウンしてみると、わたしが次のように述べることとパラレルだろう。


1 わたしは仏教徒の家庭に生まれましたが、わたしはもう仏教徒ではありません。
2 日本の仏教は、葬式仏教であることをやめるべきではないでしょうか?


これに相当することを言うと、何重にも死刑宣告を受けることになるのである。


彼女が何を問題にし、何をやろうとしていたかがよくまとまっているのは、オランダの国会議員になることを決意する部分、p.394-395 だろう。これは彼女のマニフェストであり、あまりにも切実かつまっとうな願いに胸を打たれる。


その部分は長いので引用しないが、もっとコンパクトにまとまっている部分が、エピローグにある。彼女はテオ・ファン・ゴッホという映画監督とともに「サブミッション」という映像作品を作った。(そのためにテオ・ファン・ゴッホは残忍に殺害された。)その映像作品の製作意図について書いた部分だ。

 テオに『サブミッション』に協力してほしいともちかけたとき、私は三つのメッセージを伝えようと思っていた。一つ目は、男性も女性も、顔を上げてアッラーと話をすること。信者が神と対話をして、神を見つめることは可能だ。二つ目は、現代においてコーランを厳密に解釈することは、女性に耐え難い惨状をもたらすということ。グローバリゼーションの時代に、女性を抑圧していいと思っている男性が次々とヨーロッパに来て、所有物として女性に残忍な仕打ちをしている。ヨーロッパをはじめ西洋の人々は、この深刻な人権侵害がはるか遠い世界で行われているというふりをすることは、もはや不可能だ。そして三つ目のメッセージは、映画の最後のセリフに込めた――「私はもう、服従しないかもしれません」。自分を解放することは可能だ。自分の信仰を現代に順応させ、批判的に検証し、どこまで深く抑圧に根ざしているのかと考えてかまわないのだ。


ちなみに、彼女がオランダに来て、「オランダの台所でどれだけの女児が性器切除されているか、どれだけの女性が名誉殺人されているか」と訴えても、「大げさな。データを示して」と言われたという。そこでデータを集めに行っても、当局から「そういう統計は取っていません(他の死因ならデータはあるのだが)。なぜなら、特定のグループを非難することになるからです」と言われたそうだ。


彼女が議員になってから、試験的に名誉殺人のデータがとられた。その結果、半年間にオランダで11人のムスリム女性が家庭内で家族によって殺されたことが判明したという。(女性が服従しないことは一族の顔に泥をぬる所行であり、殺されてもしかたがないとされる。おじにレイプされて妊娠した女性が石油をかぶって自殺するようなこともあるという。自殺しなくてもどうせ父や兄に殺されるからだという。)


この本のインパクトは語り尽くせない。ともかく、各国の事情だけでも知るに値すると思う。


もう一冊:


イスラーム (〈1冊でわかる〉シリーズ)

イスラーム (〈1冊でわかる〉シリーズ)


9:11の衝撃のあとに著された本である。とにかくわたしたち素人が素朴に「コーラン」を読めば、「コーラン聖典としてこの教えに絶対の服従を誓う人たちが、なぜテロリストにならずにいられるのだろうか?」という疑問を持ってしまう。そこでこの本は、歴史や文化をきちんと見ていけば、決してイスラム社会がつねにテロリスト社会であったわけではないし、イスラム法だけで話がすんだわけではなく、他のローカルな法律も実際に用いられていた、ということを、丹念に見ていくことになる。


しかし結果として、「イスラム→テロ」の安直な図式に陥らないためには、非イスラム教徒サイドにかなりの努力がいるのだなぁ、という印象を与えてしまいそうだ。


また、この著者は、女性に対する抑圧的な教えが問題であることはもちろんわかっているのだが、あちこちで、「女性の痛みなんか頭にないのね……」と思わせるようなことを言ってしまっている。たとえば、ムハンマドは、13人いた妻のうち9人と一晩に交わったこともあるという絶倫男性として有名だが、そういう彼の思想傾向に関連して著者は次のように述べているのだ。

とりすました時代のキリスト教徒を愕然とさせ、嫌悪感を掻き立てた言葉とイメージも、フロイト以降の時代にあっては、生を肯定するイメージを伝えているものとして評価されてよいのである。


正直言って、「馬鹿じゃないの……」と、一瞬思ってしまった。「”男の”生を肯定する」でしょ? あと半分の人間のことはすっかり頭から抜け落ちてますね? と。 


実際、ムスリムにとっては、「男の性欲が満たされることは神によって与えられた権利」なのだそうだ。


この本を読んでいて、だんだんイライラしてきたら、山内昌之氏の解説を読むとすっきりするかもしれない。まとめの部分には次のように書いてある。

自らの立場を固定しながら相手だけにイスラーム理解を求めるのでは、「文明の対話」には発展しようがない。対話が真に成功する条件とは、虚心にイスラームの「限界」を歴史的にふりかえりながら、現代の試練に立ち向かうことなのである。


こうして現代最大の問題のひとつかもしれないイスラーム問題に関する本を読んでいると、新聞にはパキスタンの女子校が閉鎖危機にあるとの記事が載った(2009.1.20)。タリバーンが「女子の教育は反イスラムであり許さない」として学校を攻撃し、すでに女子校120、男子校50校が放火されているという。コーランを読めば、たしかに女子に対する教育は反イスラムだろうな〜と思うだけに、なんとも暗い気持ちにさせられる。

『万物の尺度を求めて メートル法を定めた子午線大計測』


万物の尺度を求めて―メートル法を定めた子午線大計測

万物の尺度を求めて―メートル法を定めた子午線大計測


もうだいぶ昔のことだが、畏友S氏があるときこう言い放った。「ナポレオンといえばメートル法でしょう」もちろん、多少の文脈があってのことだが、わたしはあのときの軽い衝撃を今も忘れない。


わたしとて、メートル法がナポレオンの時代に作られたことはおぼろげに記憶していたが、それでも、「ナポレオンといえばメートル法でしょう」というすっぱりとした切り口には、なにか鮮烈なものがあった。


そしてまた『万物の尺度を求めて メートル法を定めた子午線大計測』の帯には、

征服者はいつかは去る。
だが、この偉業は永遠である。……ナポレオン一世

とある。おお、なんという感動的な言葉だろう。メートルという尺度を決めるために、子午線を測量するという壮大なプロジェクト。この壮大さを思うとき、いまや手あかの付ききった「余の辞書に不可能という言葉はない」というナポレオンの言葉が、生き生きとリアリティをもって迫ってくるではないか!! ナポレオン、やはり怪物だ!!


そんなことを思って、わたしは本書を読み始める前から盛り上がっていた。


……ところが、である。読み始めて仰天した。なにこれ、メートル法のプロジェクトって、ナポレオンと関係ないじゃん。アンシャン・レジームのときに、すでに始まってるじゃん。うっそ〜〜(実際、ナポレオンはむしろメートル法を拒絶することになるのだ。)


というわけで、しょっぱなから自分の無知を思い知らされることになった。さらには、「なんで長さの尺度を決めるのに地球の子午線?」という、素朴な疑問を今更抱くはめにもなった。長さの尺度とは、本質的に、そこらにある棒でももってきて、「これを長さの尺度にする」と宣言すればいいだけのことなのだ。なんで天文学者が7年もかけて、恐るべき精度で地球の子午線計測をしなければならないのか???


そう、ひと言で言ってしまえば、この途方もなさこそがフランス革命的なのだ。諸外国が恐れおののいたフランス革命の過激さは、ここに象徴されているとも言えるかもしれない。実際わたしは本書を読んで、諸外国の気持ちがはじめてリアルに理解できるような気がした。フランス革命は過激だ。度量衡を変えてしまうというのは、抜本的に過激な行動だ。暦を変え、一週間を十日にし(十進法)、時計を変える(一時間を100分にする)。こんなことが現実に行われたフランス革命、恐るべし。


とまあ、この本には驚愕の事実がてんこ盛りなのだが、読み進めていく中でふと、いったいこの著者は何ものなのだ?と疑問になった。歴史を扱う手つきの確かさが半端ではないからだ。そこで著者紹介を見てみると

ハーヴァード大学で物理学を学び、歴史学の博士号を取得。ノースウェスタン大学で歴史を講じる。

とある。なるほど、そういうわけだったか。物理学的な背景知識はもちろんのこと、歴史資料の当たり方も本格的だ。しかも一般向けのストーリーテリングがまた達者で、これはたいした逸材と言わなければならない。


というわけで、ストーリーを追うだけでも大変読み応えがあるのだが、わたしが個人的にとくに興味を引かれたのは、第五章の「計算ができる国民」と第十一章の「メシェンの誤り、ドゥランブルの静謐」である。


第五章では、度量衡を定めるとはどういうことか、そして「自然な度量衡」とはいったい何なのか、といった問題が扱われており、非常に考えさせられた。


そして第十一章では、学者から科学者への歴史的展開と、誤差という概念の成立が扱われており、これまた非常に考えさせられた。(そして個人的には、ドゥランブルの態度に感銘を受けた。)


冒険物語の体裁をとりながら、科学史という観点からも(そしてそのほかにも実に多様な観点から)、深いい内容をもつ大作本である。