『万物の尺度を求めて メートル法を定めた子午線大計測』


万物の尺度を求めて―メートル法を定めた子午線大計測

万物の尺度を求めて―メートル法を定めた子午線大計測


もうだいぶ昔のことだが、畏友S氏があるときこう言い放った。「ナポレオンといえばメートル法でしょう」もちろん、多少の文脈があってのことだが、わたしはあのときの軽い衝撃を今も忘れない。


わたしとて、メートル法がナポレオンの時代に作られたことはおぼろげに記憶していたが、それでも、「ナポレオンといえばメートル法でしょう」というすっぱりとした切り口には、なにか鮮烈なものがあった。


そしてまた『万物の尺度を求めて メートル法を定めた子午線大計測』の帯には、

征服者はいつかは去る。
だが、この偉業は永遠である。……ナポレオン一世

とある。おお、なんという感動的な言葉だろう。メートルという尺度を決めるために、子午線を測量するという壮大なプロジェクト。この壮大さを思うとき、いまや手あかの付ききった「余の辞書に不可能という言葉はない」というナポレオンの言葉が、生き生きとリアリティをもって迫ってくるではないか!! ナポレオン、やはり怪物だ!!


そんなことを思って、わたしは本書を読み始める前から盛り上がっていた。


……ところが、である。読み始めて仰天した。なにこれ、メートル法のプロジェクトって、ナポレオンと関係ないじゃん。アンシャン・レジームのときに、すでに始まってるじゃん。うっそ〜〜(実際、ナポレオンはむしろメートル法を拒絶することになるのだ。)


というわけで、しょっぱなから自分の無知を思い知らされることになった。さらには、「なんで長さの尺度を決めるのに地球の子午線?」という、素朴な疑問を今更抱くはめにもなった。長さの尺度とは、本質的に、そこらにある棒でももってきて、「これを長さの尺度にする」と宣言すればいいだけのことなのだ。なんで天文学者が7年もかけて、恐るべき精度で地球の子午線計測をしなければならないのか???


そう、ひと言で言ってしまえば、この途方もなさこそがフランス革命的なのだ。諸外国が恐れおののいたフランス革命の過激さは、ここに象徴されているとも言えるかもしれない。実際わたしは本書を読んで、諸外国の気持ちがはじめてリアルに理解できるような気がした。フランス革命は過激だ。度量衡を変えてしまうというのは、抜本的に過激な行動だ。暦を変え、一週間を十日にし(十進法)、時計を変える(一時間を100分にする)。こんなことが現実に行われたフランス革命、恐るべし。


とまあ、この本には驚愕の事実がてんこ盛りなのだが、読み進めていく中でふと、いったいこの著者は何ものなのだ?と疑問になった。歴史を扱う手つきの確かさが半端ではないからだ。そこで著者紹介を見てみると

ハーヴァード大学で物理学を学び、歴史学の博士号を取得。ノースウェスタン大学で歴史を講じる。

とある。なるほど、そういうわけだったか。物理学的な背景知識はもちろんのこと、歴史資料の当たり方も本格的だ。しかも一般向けのストーリーテリングがまた達者で、これはたいした逸材と言わなければならない。


というわけで、ストーリーを追うだけでも大変読み応えがあるのだが、わたしが個人的にとくに興味を引かれたのは、第五章の「計算ができる国民」と第十一章の「メシェンの誤り、ドゥランブルの静謐」である。


第五章では、度量衡を定めるとはどういうことか、そして「自然な度量衡」とはいったい何なのか、といった問題が扱われており、非常に考えさせられた。


そして第十一章では、学者から科学者への歴史的展開と、誤差という概念の成立が扱われており、これまた非常に考えさせられた。(そして個人的には、ドゥランブルの態度に感銘を受けた。)


冒険物語の体裁をとりながら、科学史という観点からも(そしてそのほかにも実に多様な観点から)、深いい内容をもつ大作本である。