だいぶ昔のことになるが、9:11のあと、日本のイスラム教関係者とイスラム学者有志による声明文というものをいただいた。今、手元にないので、どういう方々か署名しておられたのかはわからない。とにかく、「ムスリム=テロリスト」のような見方が広まっていることを懸念されて、何かしなければという思いで出された声明だったのだと思う。もちろん、「ムスリム=テロリスト」という図式はとんでもないことで、声明を出された方々の気持ちはわたしとしてもわかる。


しかし、その声明文のなかのワンセンテンスが、わたしの心に深く引っかかって、その後、時が過ぎるなかで折に触れ家庭内でも話題にし、「あれはいったいどういう意味だったのだろう、声明を出された方たちは、どういう気持ちで書かれたのだろう」と、ことあるごとに、繰り返し考えさせられられている。


その一文とは、イスラム教は、ほんとうは女性を大切にする宗教なのです」というものだ。(記憶で書いているが、ほぼこのママだと思う。短いセンテンスだった。)


いったいこれはどういう意味だろう? コーランが、女性を資産とみる文化のなかで書かれ、その文化から一方も出ることがなかったのは周知の事実ではないのだろうか? 夫に服従しない女は殴りなさいと書いてある。女には男の半分しか価値がないことや、女は男にとっては畑であるから、好きなときに入ってよいのは当然のこと(妻にはいついかなるときにもセックスを拒否する権利がない)と書いてある。要するに、「服従していれば、悪いようにはしない」、というのがコーランの教えである。


で、つい、声明を出された方々の心をいろいろ考えてしまうのだが、可能性としては

1 「コーランになんと書いてあろうと、現代のムスリム男性は、
   女性を対等の存在として尊重しましょう!」などとムスリム
  社会に向かって言うことは、現状、不可能なので、せめて外の
  世界に向かって詭弁を弄し、イスラム教に対するイメージを良
  くしようという苦肉の策。

2 女性に男子の半分でも価値を認めているんだから、女性を大切に
  しているではないか。資産としての価値をこれほど認めているの
  だから大切にしているのだ、と心底思っている。

3 その他


ともかく、声明書を出された方たちは全員男性だったのだろう。


でも、わたしたちは、「イスラム教は、ほんとうは女性を大切にする宗教なのです」と言われて、はいそうですかと信じることはできない。本当はどうなのかをまず知るべきだろう。実際、知ることからしか始まらないのでは?


というわけで、まずは多くの人に読んで欲しい一冊。


もう、服従しない―イスラムに背いて、私は人生を自分の手に取り戻した

もう、服従しない―イスラムに背いて、私は人生を自分の手に取り戻した

ソマリアに生まれ(この国では女児のほぼ100パーセントが性器切除を受ける)、サウジアラビアエチオピアケニア、オランダ、アメリカと移り住むことになった著者の経験と、目に映った光景を知るだけでも、わたしたちにとっては大きな価値があると思う。このような経験をこのように語ることのできる女性が、いかに希有な存在であるかも、本を読む中で、ずっしりと伝わってくる。


わたしとしても、彼女を全面的に支持するわけではないし、「不寛容に対する寛容は臆病だ」という彼女の言葉は、容易に不寛容な政治的立場の人たちに利用されてしまうだろうとも思う。


    しかし実のところ、彼女がこの言葉で言わんとしているのは
    家庭内で暴力を振るわれている女性を見捨てないで、
    女児に対する性器切除を放任しないで、
    女性にも学ぶ機会を与えて、ということであり、
    要するに、「目をつぶらないで!」という願いなのだが。

    
朝日新聞紙上でジャーナリスト松本一氏は、書評のまとめの部分で、

彼女の意見は先鋭なイスラム否定で、そのまま受け入れにくい部分も多い。しかし彼女が提起した問題は、グローバル化の中で世界のどこにでも現れてくる現象だ。オランダ社会が受けた衝撃は、他人事ではない。

と述べているが、それはまったくその通りだと思う。そしてまた、この本の最重要な部分は(=わたしたちにとってとくに重要なのは)、彼女を受け入れたオランダ社会が直面している問題に関する部分だとも思う。


しかし、ここで言われている「先鋭なイスラム否定」とは一体なんだろうか? 無理を承知で、現代日本のわたしの立場にスケールダウンしてみると、わたしが次のように述べることとパラレルだろう。


1 わたしは仏教徒の家庭に生まれましたが、わたしはもう仏教徒ではありません。
2 日本の仏教は、葬式仏教であることをやめるべきではないでしょうか?


これに相当することを言うと、何重にも死刑宣告を受けることになるのである。


彼女が何を問題にし、何をやろうとしていたかがよくまとまっているのは、オランダの国会議員になることを決意する部分、p.394-395 だろう。これは彼女のマニフェストであり、あまりにも切実かつまっとうな願いに胸を打たれる。


その部分は長いので引用しないが、もっとコンパクトにまとまっている部分が、エピローグにある。彼女はテオ・ファン・ゴッホという映画監督とともに「サブミッション」という映像作品を作った。(そのためにテオ・ファン・ゴッホは残忍に殺害された。)その映像作品の製作意図について書いた部分だ。

 テオに『サブミッション』に協力してほしいともちかけたとき、私は三つのメッセージを伝えようと思っていた。一つ目は、男性も女性も、顔を上げてアッラーと話をすること。信者が神と対話をして、神を見つめることは可能だ。二つ目は、現代においてコーランを厳密に解釈することは、女性に耐え難い惨状をもたらすということ。グローバリゼーションの時代に、女性を抑圧していいと思っている男性が次々とヨーロッパに来て、所有物として女性に残忍な仕打ちをしている。ヨーロッパをはじめ西洋の人々は、この深刻な人権侵害がはるか遠い世界で行われているというふりをすることは、もはや不可能だ。そして三つ目のメッセージは、映画の最後のセリフに込めた――「私はもう、服従しないかもしれません」。自分を解放することは可能だ。自分の信仰を現代に順応させ、批判的に検証し、どこまで深く抑圧に根ざしているのかと考えてかまわないのだ。


ちなみに、彼女がオランダに来て、「オランダの台所でどれだけの女児が性器切除されているか、どれだけの女性が名誉殺人されているか」と訴えても、「大げさな。データを示して」と言われたという。そこでデータを集めに行っても、当局から「そういう統計は取っていません(他の死因ならデータはあるのだが)。なぜなら、特定のグループを非難することになるからです」と言われたそうだ。


彼女が議員になってから、試験的に名誉殺人のデータがとられた。その結果、半年間にオランダで11人のムスリム女性が家庭内で家族によって殺されたことが判明したという。(女性が服従しないことは一族の顔に泥をぬる所行であり、殺されてもしかたがないとされる。おじにレイプされて妊娠した女性が石油をかぶって自殺するようなこともあるという。自殺しなくてもどうせ父や兄に殺されるからだという。)


この本のインパクトは語り尽くせない。ともかく、各国の事情だけでも知るに値すると思う。


もう一冊:


イスラーム (〈1冊でわかる〉シリーズ)

イスラーム (〈1冊でわかる〉シリーズ)


9:11の衝撃のあとに著された本である。とにかくわたしたち素人が素朴に「コーラン」を読めば、「コーラン聖典としてこの教えに絶対の服従を誓う人たちが、なぜテロリストにならずにいられるのだろうか?」という疑問を持ってしまう。そこでこの本は、歴史や文化をきちんと見ていけば、決してイスラム社会がつねにテロリスト社会であったわけではないし、イスラム法だけで話がすんだわけではなく、他のローカルな法律も実際に用いられていた、ということを、丹念に見ていくことになる。


しかし結果として、「イスラム→テロ」の安直な図式に陥らないためには、非イスラム教徒サイドにかなりの努力がいるのだなぁ、という印象を与えてしまいそうだ。


また、この著者は、女性に対する抑圧的な教えが問題であることはもちろんわかっているのだが、あちこちで、「女性の痛みなんか頭にないのね……」と思わせるようなことを言ってしまっている。たとえば、ムハンマドは、13人いた妻のうち9人と一晩に交わったこともあるという絶倫男性として有名だが、そういう彼の思想傾向に関連して著者は次のように述べているのだ。

とりすました時代のキリスト教徒を愕然とさせ、嫌悪感を掻き立てた言葉とイメージも、フロイト以降の時代にあっては、生を肯定するイメージを伝えているものとして評価されてよいのである。


正直言って、「馬鹿じゃないの……」と、一瞬思ってしまった。「”男の”生を肯定する」でしょ? あと半分の人間のことはすっかり頭から抜け落ちてますね? と。 


実際、ムスリムにとっては、「男の性欲が満たされることは神によって与えられた権利」なのだそうだ。


この本を読んでいて、だんだんイライラしてきたら、山内昌之氏の解説を読むとすっきりするかもしれない。まとめの部分には次のように書いてある。

自らの立場を固定しながら相手だけにイスラーム理解を求めるのでは、「文明の対話」には発展しようがない。対話が真に成功する条件とは、虚心にイスラームの「限界」を歴史的にふりかえりながら、現代の試練に立ち向かうことなのである。


こうして現代最大の問題のひとつかもしれないイスラーム問題に関する本を読んでいると、新聞にはパキスタンの女子校が閉鎖危機にあるとの記事が載った(2009.1.20)。タリバーンが「女子の教育は反イスラムであり許さない」として学校を攻撃し、すでに女子校120、男子校50校が放火されているという。コーランを読めば、たしかに女子に対する教育は反イスラムだろうな〜と思うだけに、なんとも暗い気持ちにさせられる。