『ガリレオの指』ピーター・アトキンス著 斉藤隆央訳

ガリレオの指―現代科学を動かす10大理論

ガリレオの指―現代科学を動かす10大理論

これはアトキンスが、現代科学の到達点をみんなに見てもらおうと、渾身の力で著した本である。彼自らが慎重に十個のテーマを選び、誠心誠意その話題に取り組んでいる。斉藤隆央氏の誠実な翻訳は信頼がもて、アトキンスをしっかりと受け止めているように見える。


アトキンスはおざなりな説明でお茶を濁すことなく、どのテーマについてもがっぷりと四つに組んで、深く、かつ明快な展望を与えようとしている。たとえば、第7章のタイトルが「量子――理解の単純化」となっているのを見れば、「どういう意味かな?」と思う人がいるだろう。ここでアトキンスが「単純化」をキーワードに採用しているのは、「量子力学では、位置と運動量を同時に知ることはできない」という、よくある説明に異議を唱えるためだ。彼はこう説く。

思うに、この悲観的な見方は、文化的に植え付けられた偏見の産物だ。われわれは、古典物理学と日常世界に親しんでいるおかげで、世界の物体を完全に記述するためには位置と運動量の両方が必要だと考えている。……量子力学、なかでも不確定性原理が示しているのは、実はこのふたつの属性で記述する予測が「完全すぎる」ということだ。


こんなふうに、アトキンスの語りに従ってじっくりと読んで行けば、現代科学の到達点について広く深いパースペクティブが得られるようになっている。優れた現代科学案内の書だ。


ところで、アトキンス渾身の書は、その完成度の高さ故に、かえってそこから漏れてしまったものをわたしに強く意識させることになった。あらかじめ強調しておきたいが、これはアトキンスの書き方に不足があるということではない。アインシュタインも言っているように、「一般向けの科学書においては、何を書かないかが重要」なのであり、アトキンスはその点、しっかり腹をくくって、書くべきことを選んでいるのだ。たとえて言えば、これは科学の進歩についての「一次近似」を読者に見せてくれる本である。


ここでの第0近似は、「科学は長い歴史の中で進歩発展してきた」というもの。
1次近似は、「近代以降、科学はガリレオの指さす方向に進歩してきた」というものだ。本書の中で2次近似についてごちゃごちゃ話してはいけないのであって、アトキンスは正しい。常識が崩壊し、子どもだけでなく大人の教養もあやふやになっている今、一次近似を力強く提示することの意義は大きい。


それはわかっているけれど、でも、これがすべてではないこともまた重要だと思うのだ。そして、見方によっては、高次の近似に重要な問題が含まれているとも言える。いや、この近似の取り方は(摂動展開の仕方は)、ほんとに正しいのか、という問題だってある(わたしは、やっぱり正しいと思うが。だからこそ悩みは深い(^^ゞ)


具体的に話そう。アトキンスは本書冒頭で、

 なぜガリレオの指なのか? ガリレオは、科学研究が新しい方向に進み出した転機を象徴している。科学者――もちろん、当時にはそぐわない言葉だが(訳注:実証性・普遍性を求めるという意味での科学は、一六世紀以前は定着していなかったと言われている)――が重い腰を上げ、権威と手を組む思考で世界の本質をつかもうとしていたそれまでの手法の効果に疑問をもち、近代科学の道をおぼつかない足取りで歩きだした、あの転機である。


わたしはいきなりこの冒頭でけつまづいてしまった。近代科学は、ガリレオの指さす方向に進んだのか? もちろんそうだ。第一近似では。だが、彼は力概念をみごとに捉え損なった。ガリレオの著作を読むと、その近代的精神に驚かされるし、わたしと彼とのあいだに横たわる時間の長さを忘れてしまいそうになる。だが、その合理的精神が、遠隔作用として力を(これは近代科学のキー概念だ)断固拒否した。そこのところはどうなるのだ? デカルトガリレオの思想は、重大な弱点をもってはいなかったのか?


「権威と手を組む思考で世界の本質をつかもうとしていたそれまでの手法」という描き方にも、気持ちはわかるけれど、わたしは意義を唱えなくてはならない(スコラ学の単純化アリストテレスについては後述)。


さらに、この「プロローグ 知識の登場」のしめくくりの言葉にも、考え込んでしまった。

科学はルネッサンスの精神が行き着いた極致であり、人間の精神とちっぽけな能の理解力が打ち立てたみごとな金字塔だ。……


ここでわたしは、アトキンスに向かって、「あなたにとってルネサンスの精神とは何ですか?」と聞いてみたくなる。答えはわかっている。彼は、新プラトン主義のことなどを言っているわけではもちろんない(^^ゞ。ルネッサンスという言葉を、漠然と、中世への対立概念として使っているのだ。


近代科学の誕生を紹介するときに中世をこき下ろすのはありがちな手法である。そしてまたありがちなのは、中世と一緒に古代のアリストテレスもこき下ろしてしまうことだ。アトキンスも思い切りよくそれをやっている。たとえば第五章

アリストテレスにしてみれば、原子論などまったくのでっちあげで――彼自身のでっちあげは棚に上げて――軽蔑にしか値せず、現実世界の多様な間隔経験を説明できなかった。彼は、原子が運動するのに必要な真空(何もない空間)も嫌った。真空には物を動かす媒体がなく、何かに動かされなければ運動は生じないから、真空中では運動は維持できないと考えたのである。
 アリストテレスの権威は絶大だったため、この見方はほとんど変わらずに、二千年ものあいだ人間の知識として君臨しつづけた。……十七世紀になると、人々はアリストテレスの観念的な物理学が空論であることに気づき、彼の観念的な化学も空論にすぎないことが次第に明らかになる。以来いくたびかの知の革命をはさみ、はるか後世に生きるわれわれは、アリストテレスを嘲笑うこともできる。

わたしたちは、アリストテレスの仕事をでっちあげと言っていいのだろうか? 彼の理論は空論だったのだろうか? そうではない。アリストテレスの自然学は、現象論的にも優れた体系だった。わたしたちは、決して彼を笑うことはできない。そしてまた、アリストテレスの学問は、二千年ものあいだ君臨などしていない。君臨できるようなインフラがなかったのだから(どこの誰に対して二千年間「君臨」できたというのか?)。そしてアリストテレスの受容は、それほど平和なものではなかったのだから。わたしはここで考え込まざるをえない。アトキンスが(ほかの多くのライターと同じく)大胆にやってのけたこの単純化は、ほんとうに必要なことなのだろうか?

また、第八章の宇宙論でも、アトキンスの「近代性」を見ることになる。

しかし、科学の偉大な成果のなかには、謙虚な気持ちにならざるをえない屈辱的なものもある。……天文学宇宙論の革命が起こるたびに、人間の立場がユニークでなくなっていったからである。


この見解のどこがどう問題なのかは、いずれどこかでがっちり論じてみたい。ここでは、この見解が、きわめて「近代的」だということだけ指摘しておこう。(誤解のないように書き添えておくが、わたしは近代がいかんといっているのではない。近代のとらえ方について、「それはほんとか?」と言っているのだ。)


しかしこれはアトキンスが悪いのではない。ほとんどのライターが取っている立場だと言ってもいい。なぜか? ひとことで言えば、それはみんなが近代人(現代人)だからだ。だがわたしは、そこには重大な問題があると思っている。


アトキンスという名手によるこの本は、あまりに近代的な現代科学案内であるがゆえに、わたしにとっては恰好の照準になる。わたしは、この本から漏れている事柄が、科学的知というものを理解するために重要ではないかと思うからだ。しかしその漏れた事柄を記述するには、どうすればいいのだろう? 近似の取り方を変えるのか? それとも二次近似の項を扱い方を工夫するのか? 答えはまだ見えない。