『ビッグバンの父の真実』ジョン・ファレル著 吉田三知世訳 日経BP社

ビッグバンの父の真実

ビッグバンの父の真実


ダン・ブラウンの『天使と悪魔』という本(前にも書いたことがあるが、わたしは別にこの『天使と悪魔』という本を薦めるわけではない)の上巻123ページに、「カトリック教会が1927年にはじめてビッグバン理論を提唱したとき……」というセリフが出てくる。わたしはこれを読んでのけぞった。従来の静的な宇宙像と真っ向から対立する、現代のビッグバン宇宙論の母体となる理論をはじめて提唱したのはジョルジュ・ルメートルという人物で、ルメートルカトリックの司祭だったのは事実だが、しかし彼は宗教と科学が安直に結びつけられることを嫌い、自分の理論がキリスト教の「無からの誕生」「神による天地創造」に触発されたものと見られることを強く警戒した。『天使と悪魔』にこんなことが書かれていると知ったら、ルメートルは浮かばれまい……と、わたしは思った。


しかし、よくよく考えてみれば、わたしはそんなことを言える立場ではないのだった。今でこそ(サイモン・シンの『ビッグバン宇宙論』のおかげで)ルメートルの人となりを多少とも知っているから、上記のようにダン・ブラウンに対して「トンデモねー野郎だ」などと思えるけれど、ほんの十数年前までは、わたしはダン・ブラウンの記述と同じようなことを考えていたのだから。


十数年前、わたしはある人物と電話で話した内容をはっきりと覚えている。あのときわたしはこんなことを言った。「ビッグバン理論がキリスト教の教義と非常に相性がいいということに関して、日本の研究者はままったく意に介さないけど、それもどんなもんでしょうかね? 欧米でビッグバンがすんなり受け入れられたのはそういう宗教的背景もあったのではないですかね? だいたい、オリジナルなアイディアの提唱者はカトリックの司祭ですよね?」


なんでこんな会話を鮮明に覚えているかというと、言ってる当人σ(^^;)、どこかいいかげんな憶測をしているという感触があったからだ。実際、上記のわたしの発言はことごとく憶測であることがその後判明した。だいいち、ビッグバン理論はすんなり受け入れられたのではない。それどころか、キリスト教プロパガンダの匂いがするということで袋だたきにあったと言う方がまだ事実に近いかもしれない。


さらに言えば、上記発言をしたとき、わたしは漠然とながら、科学にちょっかいを出したカトリックの聖職者が思いつきで大風呂敷を広げたんだろう、ぐらいに思っていた。今となっては、穴があったら入りたいほどの恥ずかしい決めつけである。ほんとうに、ほんとうに、ルメートルには申し訳ないことをしたと思わずにはいられない。(しかし、十数年前のわたしと同じように思っている人は多いはずだ。)


『ビッグバンの父の真実』に繰り返しきっぱりと書かれているように、ルメートルが自分の宗教と科学をごちゃまぜにしたことはなかったし、その姿勢は見事に一貫していた。むしろキリスト教の影響を懸念して立ち位置がぶれまくったのは周囲の方だろう。しかしそうは言っても、キリスト教の介入を心配するのには十分な理由がある。歴史を知る者ならば、懸念しない方がどうかしている。立ち位置がぶれまくった多くの人たちは(わたしも含めて)、むしろ自然な反応をしたのだと思う。ルメートルの方が特異的なのだ。なぜ彼は、あれほど確固たる態度を貫くことができたのだろう? 宗教と科学というヤバげな領域で、しかも司祭という立場にありながら、どうしてあれほど大胆なアイディアを次々と打ち出すことができたのだろう? 


これについては、少なくともわたしにとっては、訳者あとがきで吉田三知世氏が紹介していた、ジーン・アイゼンシュタット(ルメートルの伝記作家らしい)の解釈がとても示唆的だった。アイゼンシュタットは、ルメートルが柔軟で自由な思考をすることができたのは、神を身近なものと感じていたからではないかと言っているという。

つまり、神の前で自由に振る舞ってかまわない、他の人々なら、絶対変えてはならない思考の枠組みとみなすものを変更することが自分にはできると感じていたということらしい。

ルメートルにとっては、カトリックの教えは教条にはならなかったということだろうか。


ルメートルと宗教というテーマは尽きせぬ興味の対象だが、しかし実を言うと、わたしがこの『ビッグバンの父の真実』を読んで一番興味深いと思ったのは、ルメートルの科学者としての資質である。彼が非常に数学のできる人だったらしいことはサイモン・シンの本からも感じ取れたのだが、『ビッグバンの父の真実』ではそのことがよりはっきりと打ち出されている。わたしが十数年前に憶測しように「宗教的な背景のもとで思いつきを口にした」というのとは逆に、彼はバリバリに数学の力量のある人だった。


もうひとつ重要だと思うのは、ルメートルが実験(この場合は観測というべきか)にきわめて近いところにいたということだ。この点が、アインシュタインとは決定的に違っているように思う。ルメートル自身、望遠鏡を操作したかどうかはこの本を読んでもはっきりしなかったが、少なくとも、データは多少とも自分でいじったことがありそうだ。


要するにルメートルは、数学と観測のどちらにも非常に長じた理論家だった。さらにいえば、(これは彼が宇宙論から離れる原因にもなったのだが)彼はコンピューターが大好きだった。このあたりが、アインシュタインともガモフともホイルとも違う、彼の強みでもあったのではないだろうか。


『ビッグバンの父の真実』の著者ファレルはルメートルの論文や記事に実際に当たり、彼の視野の広がりや大胆な発想をふんだんに紹介してくれる。それを読むと、ルメートルの理論家としての大胆さや先見の明には驚かされる。そして、彼の業績をわたしがほとんど知らなかったということに、正直、非常に驚かされた。ルメートルは、膨張宇宙、宇宙定数、ブラックホールなど、現代宇宙論の画期的な概念を先駆的に打ち出している。


最近まで、ルメートルの名前を知っている人は、ビッグバンの歴史に詳しいごくごく一部の人だけだったのではないだろうか? なぜそんなことになってしまったのだろう? 「無名のカトリック司祭」などと書かれることさえあったのはなぜなのか? 


ジョン・ファレルは、明快であると同時に深い洞察によって、こうした疑問に対して多くの手がかりを与えてくれる。ルメートルにまつわる「なぜ」がすべて解決することは永遠にないのかもしれないが、それでも考え続けることにはきっと意味があるにちがいない。宇宙論に関心のある人だけでなく、科学の進展に興味のある人にも、科学と宗教との関係に興味のある人にも、ぜひ一読してほしい本だ。