レトリック(2)

ディオニュシオスによるデモステネス論――説得技術の最高峰


ディオニュシオスの修辞学論集は、数人の著名な弁論家を取り上げているが、すべてはデモステネス論への序論であるようにも見える。構図だけ言えば、次のようになる。



文章のスタイルには荘重体(トゥキュディデスなど)と、平明体(リュシアスなど)がある。その両者を合わせた中間体(混合体)こそは目指すべきスタイルであり、デモステネスによって混合体は最高のレベルに達した。


「荘重体」および「平明体」という言葉は良く内実を表しており、とくに説明は要らないほどだ。で、なぜ両者を併せた混合体がもっとも望ましいスタイルなのかを、ディオニュシオスはびっくりするほどあけすけに述べている。


わたしはそれを読んで、「おいおい、そんなことでいいんですか。そういう話ですか?」とかなり驚いた。この問いへの答えは、「そういう話なのだ」ということになる。


ディオニュシオスは、「第十五章 中間体すなわち混合体こそが万民に受け入れられる」という章で、次のように語っている。(以下の説明は、それほど省略しているわけではない。分量的には4分の1ぐらいにかいつまんでいるだけ。)



荘重体は知的な人たち向けである。民会や法廷、その他市民の弁論がなされる場所に集まる人たちはみんながみんなトゥキュディデスの知性をもつわけではない。畑や漁や鍛冶場などから集まってくる人たちには平明な語り方がよろしい。一方、知的な人たちには、もっと飾り立てて工夫を凝らした表現のほうがウケる。知的な人たちはごく一部だが、少数だからといって侮ることはできない。そんなわけで、荘重体と平明体を適当にまぜて使うことにより、多くの人たちを説得することが可能になるのだ。


先述のように、わたしはこの章を読んでかなり驚いたのだが、なぜ驚いたかというと、「修辞学とは説得を目的とする学問である」ということがわかっていなかったからだ。欧米では文化的伝統の一大ジャンルである修辞学(弁論術)だが、この学問がめざすのは「説得」なのである(言われてみれば当たり前だが……)。日本ではこのジャンル(説得のための文芸)の伝統が非常に薄いという点は、多くの人が指摘するところだろう。


■わたしは毎日修辞学をやっている(^^ゞ


ディオニュシオスは、とりあえず弁論の中身はあることにして議論をする。つまり、中身のない話をするのではなく、話すべき中身はあるものとして、その中身をいかに説得的に語るかを問題にする。今日、「レトリック」というと、中身もないのに舌先三寸で相手を丸め込むといった文脈で語られることが多いが、そうなる理由はこの学問に内在しているとも言える(中身はさておき技術を問題にするから)。


だがディオニュシオスは、(レトリックという言葉からわたしが想像していたこととは異なり)華美な言葉やハデな表現をむやみに使ったり、空疎な言葉を並べたりすることを強く戒め、平たく言えば、「的確な言葉を選び抜き、相手に伝わりやすい語順を考え抜け」と言っているのだ。実はこれは、翻訳者が毎日、毎日、うんうん呻りながら苦労してやっていることと同じなのである。中身(原書)はある(中身は深く読解はできているものとする(^^ゞ)。残る課題は、日本語の体系内で的確な言葉を選び、伝わりやすい語順を考えることだ。


なんだ、わたしは日々、修辞学の修練をしていたのか……(^^ゞ


突拍子もない感想ではあるが、それほど的はずれでもない気はする。いずれにせよ、遠い遠い存在だった修辞学が、一気に身近に思えるようになったのは、わたしにとって悪いことではないだろう(たぶん)。