レトリック(3)

■弁論術・修辞学の歴史(古典古代の範囲内で)


弁論・修辞の言葉の起源と、同じ言葉が指示する内容の変化を、『ディオニュシオス 修辞学論集』の木曽・戸高両氏による解説にもとづいて簡単にまとめておく。


レトリックの起源は、ギリシャ時代の「レートリケー・テクネー」だ。レートリケー(ρητοριχη)は「弁論・演説」を意味する言葉で、動詞レオー(ρεω)は「話す」。レートール(ρητωρ)は「弁論家」だ。したがってこの時代はほぼ完全に、音声を用いた言論の世界である。


弁論はアテナイ民主制の華だったが、そのアテナイマケドニアに負けて、現実世界での弁論の役割も衰退し、レートリケー・テクネーはもっぱら青年の教育のために用いられるようになった。それにともない「レートリケー」という言葉にも、弁論の字句、語法、表現技法の工夫や洗練をめざす「修辞」の意味が濃厚になる。


実践→理論
弁論家→修辞家
政治弁論→学生の演習


という変化が進むうちに、時代はギリシャからローマへ。(ディオニュシオスはローマで活躍したギリシャ人である。ローマに定住したのは前30年頃。)


ローマでは、外来語「レートリケー」は修辞学教師の意味。演題に立つ弁論家は「オーラートル」と言われるようになった。この当時、ローマの教養人はバイリンガルで、ギリシャ語は国際語だった。ディオニュシオスは、格調高いアッティカ弁論の精髄を教える立場にあった。(ディオニュシオスがローマに来る前の時代は、誇大で華麗な表現を駆使するアジア風弁論がもてはやされていた。)


わたしはデモステネスの弁論はかなり情緒的だと思ったが、それでも彼はあくまでもアッティカ弁論(アジア風弁論ではなく)の最高峰なのだ。ふむ。


■デモステネスの評価


ディオニュシオスはデモステネスをものすごく高く評価していて、べた褒めというに近い。デモステネスの扱いは、他の弁論家たちとはまるで違う。まさしく別格だ。


大西英文氏が、キケロとデモステネスの関係について月報に記事を書いてらしたが、それによれば、キケロはデモステネスを高く評価し、非常に意識してもいたようだが、「デモステネスには結局及ばなかった」というのが大方の見方のようだ。


中世の自由七科には、それぞれの科を象徴する人物がいるが、修辞学をしょって立つのはいつだって(わたしの知るかぎり)キケロだ(分野によっては人物が変わることもある)。そのキケロをも上まわるのがデモステネスらしい。キケロの名は知っていてもデモステネスなんて最近まで知らなかったわたしは、デモステネスがそんなすごい人物だったと知ってたいへん驚いた(^^ゞ。古代とは異なり、中世はラテン語ワールドだから(古代人キケロバイリンガルだったがラテン語の文章家だ)、デモステネスもへったくれもないということなのだろうが。


とにかく、ここまでデモステネスを誉め上げられると、『アリストクラテス弾劾』ひとつを読んだぐらいで好きの嫌いのとは言ってられないな、と思う(^^ゞ。


それと、デモステネスは非常な努力家だったらしく、さまざまなエピソードがほとんど伝説のように語られているようだ。「旋律、リズム、文彩、言葉の配列」などに苦心惨憺したそうだ。また、発声や呼吸を鍛えるために、星飛雄馬ばりの(古い(--;))鍛錬もしたらしい。うむ……。やっぱり、デモステネス、もうちょっと読んでみなければ(今すぐは無理だけど)。