『プラトン全集5』(饗宴、パイドロス)


プラトン全集〈5〉 饗宴 パイドロス

プラトン全集〈5〉 饗宴 パイドロス


今朝、プラトンの『饗宴』(これは復習)と、『パイドロス』(はじめて)を読んだ。で、『パイドロス』のほうだが、内容の本質的なこととは関係のない枝葉についてメモしておきたい。というのも、わたしはこれを読んで、かなり「しゅん」としてしまったからだ。ちょっと、リュシアスが気の毒で……。


なにしろはじめて読んだので、『パイドロス』が終始一貫、リュシアスをやり玉にあげた話だとはまったく知らなかった。そうか、『パイドロス』を読んだことのある人にとって、リュシアスはある意味「有名人」だったのか……


かつて、


リュシアス弁論集 (西洋古典叢書)

リュシアス弁論集 (西洋古典叢書)


を読んで、わたしはリュシアスのように文章が書けたらなぁ、と思った(リュシアスの文章は平明達意と評される)。法廷弁論だけど、全然、いやな感じ(ごまかしとか)がなくて、誠意ある文章に思われた。


しかしまあ、文章力という点でさえ、プラトンというのは相手が悪すぎる。『パイドロス』でのプラトンは、リュシアス風の文章も、グレードアップしたリュシアス風の文章もお手のもの。読者はにやにや笑いながらも、「これだって十分に説得力がある、すばらしい文章だよね」と思える。


だがその後、ソクラテス風の文章となると、これはもう、軽妙も重厚も自由自在、のびやかで巧妙で、緻密で……あまりのみごとさに、恐れ入りましたとひれ伏すしかない。プラトン、文章うまい! 「アッティカのミツバチ」の面目躍如だ。単に文章家としても、プラトンのスケールはリュシアスの比ではないのだろう。


しか〜も、その文章力をもって表現している思想内容ともなれば、これはもう、「当時のアテナイで有数の知識人リュシアス」と、「後世の思想・文化に絶大な影響を及ぼした巨人プラトン」とでは、はなから勝負にならない。ああ、ほんとに相手が悪すぎる。


救われるのは、プラトンがリュシアスをいやらしくとっちめているという印象がないこと。むしろ、リュシアスが第一級の書き手だからこそ、代表選手として登場してもらっているという立場が伝わってくることだ。(それに関連して言うと、『パイドロス』の最後で示すプラトンのイソクラテスに対する評価は、なるほどとうならされた。)


リュシアスが後世のようすを草葉の陰からずっとみていたとして、そんな彼に今、会えるとしたら、わたしはぜひ聞いてみたい。「プラトンパイドロスをどう思われますか?」と。リュシアスは、「いやぁ、あれには参りましたよ」と言うだろうか? それとも、「なにしろ相手はプラトンですからね、光栄です」と言うだろうか?


というわけで、なんとなく「しゅん」としてしまったが、それでもなお、わたしが「リュシアスのように書けたらなぁ」と思うこと自体は、実はそれほど的はずれではないような気がするのである。