the new yorker november21, 2005& january 2, 2006

■"PRISONER OF NARNIA" C.S.ルイス

わたしは大人になってから、子供たちへの読み聞かせという形で『ナルニア国物語』読んだ。そして、あまりに狭量なキリスト教倫理臭さに驚いた。子ども時代にこれを読んだ人は楽しめるかもしれないが、大人になってから読んだ人、大人になってから読み返した人たちはどんな感想をもつのだろう、と思った。


このたび THE NEW YORKER の2005年11月21日号の PRISONER OF NARNIA という記事(C.S.ルイスの伝記に対する書評)を読んで、上記の自分の印象(狭量なキリスト教倫理臭さ)がそれほど特異ではなかったことを知り、「やっぱりそうか」と思った。


この記事の冒頭では、「イギリスとアメリカで評価が大きく異なり、まるで別人の評を読んでいるような気になる」二人の人物名が挙げられる。一人はチャーチル、もう一人はルイスだ。アメリカにおけるチャーチルは「右翼の神様」であるのに対し、イギリスでのチャーチルは、尊敬はされているものの、「最終的にはとっても得意なひとつのことを上手にやりとげた人物」と見られているそうだ。


ルイスは、アメリカでは「教会のステンドグラスに描かれるような聖人」なのに対して、イギリスでは「たまたま良書をいくつか書いたが(中世後期の詩に関するもの)、基本的には困ったちゃんの論客」と見られているらしい。


このルイス評を読んで、わたしが『ナルニア』とルイスについて受けた印象はおおむね裏づけられたが、ひとつだけ考えを修正させられた点がある。それは、(少なくともイギリスでは)ルイスの描く世界は、かならずしもキリスト教的だとは思われていないということだ。


ナルニア』の差別的で不寛容な思想は、キリスト教の基本的な教えとは反すると思っている人たちも少なくないらしい(もちろんルイス自身は、自分の思想がとってもキリスト教的だと思っていたわけだが)。下に述べるフィリップ・プルマン(彼は無神論者)も、ルイスを激しく批判し、「あんな思想はキリスト的ですらない」と言っている。


    ナルニアの racism, nasty little-Englishness,
    and narrow-hearted religiosityは、
    the common imagination of childhood だとプルマン
    は言う。子ども時代にナルニアを読んでファンになった人は
    ナルニアを脱することができるのだろうか……うちの子どもたちは、
    子ども時代の印象のまま、ナルニアとルイスを肯定し続けることになり
    はしないだろうか……などと思ってしまった。


■"FAR FROM NARNIA" Philip Pullman

THE NEW YORKER の 2006年1月2日号には、FAR FROM NARNIA というタイトルでフィリップ・プルマンに関する長い記事が載った。この記事の挿絵は、アダムとイブのアダムに扮したプルマンで、手にはすっかり食べ尽くして芯だけになったりんごが握られている。


わたしは不勉強にしてプルマンの「ライラ・シリーズ」というのを読んでいなかったが、THE NEW YORKER の記事を読んで、ぜひとも読んでみたいと思った。この記事の筆者 Laula Millerによれば、「ライラ・シリーズ」は子供向けの本として書かれているが(そして、シリーズ中の一冊は子供の本の賞のみならず、大人の本のための賞も受賞しているが)、最良の読者は


but their ideal reader is a precocious fifteen-year-old who long ago came to find the Harry Potter books intellectually thin. (ハリポタファンのみなさまごめんなさい(^^ゞ)

だという。成長した結果、無垢ではなくなることを肯定する無神論者プルマン。教会からは危険人物視されているが(しかしわたしから見て至極まっとうな思想の持ち主であるプルマンを、現代もなお危険人物視する教会ってところは……むむ〜(--ゞ)、イギリスでは絶大な支持を得ているようだ。登場人物の中には、もと尼僧の素粒子物理学者というのも出てくるらしい。これはぜひ読んでみなければ。