エラスムス(針の上の天使)

わたしがエラスムスの『痴愚礼讃』を読んでみようと思い立ったのは、もう長いこと(具体的には一年半前から)気になっていたひとつの問題について、少しは解決への手がかりを探してみようかなと思ったからだ。


その問題とは、「中世のスコラ哲学者たちは、針の頭の上にいくたりの天使がとまることができるかについて論争していた」というまことしやかな主張は、いったいどこから出てきたのかということだ。


スコラ哲学の内実にもかかわるこのエピソードは、実は真顔でいろいろなところに持ち出されている。現に、わたしはこのエピソードに何度も出会っている。それを書いた人たちは、スコラ哲学者はそういう議論をしていたのだと本気で思っているようなのだ。


そのためかつてはわたしも、スコラ哲学者にとってはそんなこと(=針の上の天使)も重大な問題だったのかなぁ、と思っていた。だが、実際にスコラ哲学者の著作をちらちらとめくっているうちに(そんなことができるのも、平凡社の中世思想原典集成のおかげだ)、どうもおかしいと思いはじめた。なにかが変だ。スコラ哲学者の問題意識と、この天使のエピソードとは、ちょっとずれているような気がしてきたのだ(単なる素人の直観だが)。


そうこうするうちに、トマス・アクィナスの研究者である稲垣良典氏が、

天使論序説 (講談社学術文庫)

天使論序説 (講談社学術文庫)


の中で、

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「いつの頃からか、スコラ学者たちは一本の針の先にいくたりの天使がとまることが
できるか、という問題を熱心に論じあった、という説が哲学史のなかに持ちこまれ、
こんにちでもスコラ学が無用な学問であることを示す例として持ち出されることがあ
る。

しかし、じっさいには天使とはどのような存在であるかを真面目に考え、またすこし
でも理解できるスコラ学者ならこのような問題を提起するはずがないのであり、この
話はすでに多くの人が指摘してきたように(ごく最近ではM.アドラー『天使とわれわ
れ』マクミラン社、一九八二年、十九ページ)誰か近代の著作家がスコラ学を茶化す
ためにでっちあげたものにすぎない。おそらくそのヒントになったと思われる箇所と
してトマス・アクィナス神学大全』第一部第五十二問題第三項「いくたりもの天使
が同時に同じ場所においてあることが可能か」を挙げることができるが、トマスはこ
こで純粋な精神である天使が「場所においてある」といわれるのはいかなる意味にお
いてであるか、という基本的な問題について考察しているのであり、それはけっして
空虚な暇つぶしの議論ではない。いずれにしても、このでっちあげの話がスコラ学嘲
笑のための格好の材料として語り継がれているという事実は何か奇怪なことと言わざ
るをえない。」(『天使論序説』講談社学術文庫pp.16-17)

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と書いておられることがわかった。


(ここに記述があるという情報をくださったのは、中世思想原典集成愛好会の大橋さんです。大橋さんに感謝します。)


そして最近になって、ふと、もしかしたらエラスムスあたりが言い出したかも? と思ったのだ。しかしちょっと考えてみれば、もしもエラスムスの『痴愚礼讃』のような超有名な本にそのエピソードが出ていれば、「少なくともエラスムスはその話を持ち出している」(初出かどうかは別にして)という情報はそこらに転がっているはずだろう。だから、きっと『痴愚礼讃』には出てこないにちがいない。そうだとしても、『痴愚礼讃』に出てこないことを自分で確かめておくことには意味がある、と思ったのだ(根拠なし(^^ゞ)。


読んでみた結果、やっぱり『痴愚礼讃』にはこのスコラ哲学のエピソードは出てこなかった。

だがしかし、出てきても少しもおかしくないということはよくわかった。エラスムスは痴愚女神の口を借りて、中世スコラ哲学(実念主義者、唯名論者、トマス主義者、アルベルトゥス主義者、オッカム主義者、スコトゥス主義者)を徹底的に小馬鹿にしくさっており(^^ゞ、その語り口から言って、「針の先の天使」がぽろりと出てきても少しもおかしくはなかった。


それにしても、わたしにはよくわからない。一部の教皇や高位聖職者の腐敗や堕落が激しく糾弾されているのはわからないでもない(いや、これはよくわかる気がする)。でも、わたしが見る限り、スコラ哲学者はそんなに無意味なことをやっていたようには思えないのだ。いやむしろ、彼らは後世の思想に大きな影響を及ぼす重要な問題を考えていたように思う。なぜ、スコラ哲学者はここまで小馬鹿にされなくてはならないのか、わたしには解せなかった(というか、『痴愚礼讃』の中で、わたしにとって一番不愉快に感じられたのはスコラ哲学への嘲弄だった。)

(明日に続く)