エラスムス(スコラ学と人文主義)

エラスムスの『痴愚礼讃』(の邦訳)は、これまた訳者による解題がたいへん有益だった。なにしろ訳者の大出晃氏は、いかにもわたしにとって有益な解題を書いて下さりそうな経歴の持ち主なのである。


大出氏は、スコラ哲学の権威であった松本正夫氏のもとでトマス・アクィナスを講じることから学者として出発したが、その後長らく科学哲学の分野で研究を行った。ところが最近になってルネッサンス思想家の書いたものを講じなければならなくなり、「こうしてわたしははからずもスコラを嫌悪するルネサンス人文主義者の世界にひたることになった」のだそうだ。


そうして苦労してエラスムスを読んでいたときに原文と邦訳との食い違いに気づき、ラテン語からの翻訳に取り組むことになったのだという。


大出氏の歴史的背景に関する説明はコンパクトでわかりやすく、たいへん面白かった。たとえば、中世のartes liberales(自由7課、これはたいへん理系重視の科目構成といえる)から、十五世紀には定式化されることになったstudia humanitatis(理系科目がない(^^ゞ)への移行の話など、さらりと書かれているだけだが、わたしにとってはたいへん興味深い内容だ。

しかしなんといっても、次の1パラグラフにはハッとさせられた(^^ゞ。



 今日風に言えば、文化系志向の人文主義者たちが理科系志向とも言うべき伝統的スコラ学者たちと多くの点で反りがあわなかったのはむしろ当然のことかも知れない。人文主義者たちがその理想とする文体や人間像からしてスコラ学者のラテン語文章とその生活様式に反発を感じ、唾棄すべきものと考えても不思議ではない。彼らにとってスコラ学者たちの無味乾燥で奇妙な新造語や面倒な弁証にあふれた文章が滑稽なばかりでなく、一種生理的嫌悪を呼びおこすものであったことは想像に難くない。彼らはその嗜好からしプラトンの文体とその議論を好み、アリストテレスを嫌悪し、アリストテレス主義を基本とするスコラ哲学に怖気をふるった。この両者の対立は理性的論理的と言う以上に、むしろ、資質的感覚的レヴェルと言ってよかろう。人文主義者のスコラ的思想や伝統的生活様式に向けられた揶揄と侮蔑のもっとも著名な例のひとつがこの『痴愚礼讃』にほかならない。しかし、人文主義者のはげしい罵倒と批判に耐えたアリストテレス・スコラ主義のある部分が少なくとも近代科学思想の形成に重要な役割を演じた事実もまた無視されるべきではないだろう。


わたしはこのパラグラフを読んで、頭の中の霧が晴れたような気がした(おおげさ(^^ゞ)。

わたしにとってアリストテレスは知れば知るほど好きになる相手だし(今のところは)、スコラ学がなんでそこまで小馬鹿にされなくてはならないのか、どうにもわからないからだ。わたしにとってアリストテレスやスコラ学は、ちょっとお近づきになっただけでなにやら引力を感じる対象なのである(^^ゞ。


それに対していわゆる人文主義者の書くものは(こちらも大して読んでいるわけではないけれど)、たいへん魅力的なものもあることは認めつつも、なんとなく「願望まみれ」の印象を受けてしまう(うまくいえません。ものたりなさを表現する、もっと的確な言い方があるはずだけど)。要するに、斥力を感じる対象なのである(^^ゞ。


なるほど、この引力・斥力は、資質的感覚的レベルで働く力であったか……


……などと早わかりせずに(^^ゞ、スコラ学も人文主義も、まだまだいろいろ読んでみなければ。


いずれにせよ、わたしのような一介の素人が、古典古代や中世の人たちの書いたものを(そしてまた今回のエラスムスのように人文主義者の書いたものを信頼できるラテン語版からの訳として)日本語で読むことができ、あれこれ素朴な感想をもてるというのは、たいへんありがたいことである。

(この項終わり)