『イーリアス上中下』岩波文庫 呉茂一訳

イーリアス (上) (平凡社ライブラリー)

イーリアス (上) (平凡社ライブラリー)

イーリアス〈下〉 (平凡社ライブラリー)

イーリアス〈下〉 (平凡社ライブラリー)

上掲のデータは平凡社だが、わたしは岩波文庫で読んだ。『イーリアス』(つまりはトロイ戦争)のお話はよく知られているが、わたしが邦訳を通読するのはこれが初めて。『イーリアス』の文化的背景や意義などはいろいろな本で紹介されていて、たとえば、

ムーサよ、語れ―古代ギリシア文学への招待

ムーサよ、語れ―古代ギリシア文学への招待

の第一章も『イーリアス』で、たいへん勉強になる内容がコンパクトにまとめられている。しかし以下では、はじめて『イーリアス』を通読してσ(^^)がびっくりしたこと(あるいは、頭では知っていたかもしれないが、身についていなかった知識)を素朴に書いてみたい。こういうアホな感想こそ、通読した人間にしかもてないと思うからだ(^^ゞ(苦笑)


■『イーリアス』にはパリスの審判の話は出てこない!

なんと『イーリアス』には、トロイ戦争の発端になったというあの「パリスの審判」のエピソードは出てこないのであった。知らなんだ〜。訳注によれば、あのエピソードは後世に作られたものだそうだ。そうだったのか……


■『イーリアス』にはアキレウスがパリスにアキレス腱を射られて死ぬ話は出てこない!

イーリアス』の中ではアキレウス(母テティスもそうなのだが)は「俺は死ぬ、もうすぐ死ぬ、結局死ぬ……」と「死ぬ死ぬ」言い続けるので「アキレウスは死にます」ムードが充満しているが、この話はアキレウスが死なないままに終わる(公約不履行?(^^ゞ)。『イーリアス』の終幕は、ヘクトルの死を悼むトロイアの女たちの嘆きである。


ヘレネーはパリスにラブラブではない。

これはまあ、知識としてもなんとなく知っていたことだが、実際に『イーリアス』を読んでみると「完全に冷めてるなぁ」という感じ。いったい最初はラブラブだったのだろうか?、という疑問さえ浮かぶ。「駆け落ち=ラブラブ」というのがそもそもこっちの勝手な思い込みなのか?


■『イーリアス』はかなりスプラッター

イーリアス』の物語を要約してしまうと、「アガメムノンアキレウスの対立(1)」+「パトロクロスの死以降の展開(2)」ということになってしまうが、実際に通読すると、(1)は冒頭、(2)は終幕である。その中間は延々と戦闘シーンが続く。なにしろ岩波文庫で上中下と3巻あるから、話としてはかなり長い。その長い話のかなりの部分は戦闘シーンで、脳みそが飛び散ったり、腸がずるずると出てきたりと、かな〜りリアルな(?)血みどろシーンにびっくり。


■アプロディテはゼウスの娘

ギリシャ神話の中でもアプロディテの位置づけは難しいのかもしれない。『イーリアス』ではゼウスの娘となっていた。アポロドーロスでもゼウスの娘になっていたから、古い形ではゼウスの娘なのだろう。


   アポロドーロスの『ギリシア神話』については、次のような紹介文がある
   「従来紹介されてきたギリシア神話は,後のヘレニズム時代の感傷主義の
    影響を受けた甘美な物語が多い.アポロドーロスが伝える神話伝説は,
    古いギリシアの著述を典拠とした,いわばギリシア神話の原典という
    べきもの.」


■へパイストス作「アキレウスの楯」に描かれているもの

アキレウスの楯は壮大なデザインで、いわばひとつの世界観のようなものだと聞いていたので、実際にどんなものがどのように描かれているだろうかと楽しみにしていた。問題の楯に関する記述は下巻第十八の書 478-608行のあたり。しかしわたしはこの楯の描写を読んで意表を突かれた。楯に刻まれた情景は、絵画でいうと十六世紀以降の風俗画といった趣なのだ。なんでまたへパイストスはアキレウスのためにこんなデザインを考えたのだろう?? これに関するまとまった解説があれば(あるはずだと思う)ぜひ読んでみたい。


■神々の仁義なき戦い

ギリシアの神々は非常に人間的だという話はどこにでも書いてあるからわたしとしても知ってはいたが、しかし岩波文庫上中下を通読して、モラルも仁義もへったくれもない神々の振る舞いを見続けると、「たしかにこれはなかなかすごいわ」と実感できる(^^ゞ。これを実感しておくことは、キリスト教関連文献を読むときにはけっこう大事かも?


アキレウスvsアガメムノン;決着の付け方

開いた口がふさがらなかったのは(^^ゞ、アキレウスアガメムノンが和解するシーンで、アキレウスが「アガメムノンがあんな理不尽な振る舞いをしたのは神々のせいなのだし……」みたいに言ったこと。まあ、お約束のセリフとはいえ、私は、「そんなふうに思えるなら、おまえ(=アキレウス)もあんなに意固地になるなよ(--;)」と思ってしまった。しかしアキレウスが意固地になったのも神々のせいなのであろう……。


■焼き肉パーティーでつながる神々と人間(^^ゞ

これもまた、わかってはいても改めて面白いと思ったのは、後世のキリスト教的な内面的つながり(かなり息苦しいとも言える)ではなく、「神々を尊重するなら肉を焼いて捧げなさい」という点。神々の発言にも、「あの人間には目をかけてやらなければならない。なぜなら彼はこれまで一貫して、肉を焼いてわたしに捧げてきたのだから」といった内容のものが何度も出てくる。(これはギリシャ神話の世界だけでなく、ユダヤ教以外の古代宗教はみんな基本的にそういう考え方。)