『マザー・ネイチャー』

マザー・ネイチャー (上)

マザー・ネイチャー (上)

マザー・ネイチャー (下)

マザー・ネイチャー (下)


この本を手にしてから読むまでに少し時間がかかった。理由の一つは、なにしろ分量がすごいので、軽い気持ちでは手を出せなかったことだ。しかしもう一つの理由は、「マザー・ネイチャー」というタイトルだった。ハーディーさん、何か考えがあってのことだとは思うけれど、なんて情緒的なタイトルだろう……(--;) と思ってしまい、いまいち、「さあ、読むぞ!」という気持ちになれなかったんじゃないかと思う(なにぶん少し前のことなので、確かなことはわからない……σ(^^ゞ)


しかし実際に読み始めてみるとすぐに、ハーディーの大きな目標(のひとつ)が見えてきた。ハーディーは、「マザー」と「ネイチャー」という二つの言葉がそれぞれ背負わされている意味を塗り替えるという、途方もないことを考えていたのだ。そして彼女はみごとそれを成し遂げたと思う。本書を読んで、自分がこれまで抱いていた「マザー」像と「ネイチャー」像がゆらぎ、漠然とした不安を抱く人も、あるいは本書に対して敵意を抱く人もきっといることだろう。そういう人たちが、自分は何に不安を感じているのか、何が不快なのかを、一歩掘り下げて考えてくれたらいいのだが……。


本書を読んで感銘を受けた点は多々あるが、そのうちのひとつが、「進化生物学の歴史そのものがもつ力」だ。進化生物学はその誕生の時から、時代の文化によって大きな制約を課されていた。ダーウィンその人も時代の制約から自由ではなかった。だが、それから百年あまりをかけて、進化生物学は紆余曲折を経ながらもひとつひとつ足かせをはずし、本来の力を発揮しつつある。そのうねりは大河のようだ。(もう少し具体的に書ければいいのだが……σ(^^;)の力が足りなくて残念!)


700ページに及ぶ原著に向き合い、ハーディーの語りを受け止めた塩原通緒氏の訳業に拍手を送りたい。