クオ・ヴァディス(反ユダヤ主義への道)

反ユダヤ主義には、大きく二つの原因がありそうだ。


ひとつは、ユダヤ人がどこででも「よそ者」であったこと。そしてもうひとつは、キリスト教が誕生したことである。


前回書いたように、エウセビオスコンスタンティヌスの生涯』の訳者である秦氏は、エウセビオス反ユダヤ主義は犯罪だと言っている。実際、この本に何が書かれているかというと、ユダヤ人は「主殺し」という最低最悪の罪を犯した者たちであり、それほど重大な罪を犯してしまった者は、まともにものを考えることも、まともな行動をすることもありえないということだ(『コンスタンティヌスの生涯』では、エウセビオスコンスタンティヌスの口を借りてそう言っているが、主著『教会史』では、自分の言葉としてそう言っているらしい)。


わたしのような非キリスト教徒にとっては、「主殺し」といわれてもあまりピンと来ないが、まあ、リクツを考えてみただけでも、これは途方もない犯罪なのだろう。しかしそれと同時に、次のようなナイーブな疑問も生じる。「そうは言っても、ナザレのイエスも、使徒たちも、みんなユダヤ人でしょ? なにせもともとはユダヤ教内部の宗教改革だったんだから」と。


この点、エウセビオスは、「ユダヤ人」と「ヘブルびと」という言葉を使い分けているからわかりやすい。ヘブル人は、救い主イエスが現れる以前の人々であり、キリスト教徒の前身である。イエス・キリストが現れたにもかかわらず、それを信じなかった者がユダヤ人である。


このエウセビオスの主張から想像できるように、キリスト教が権力と結びついたことにより、反ユダヤ主義イデオロギーとして確立したという面がありそうだ(キリスト教社会では)。


だが、ユダヤ人迫害は、キリスト教の誕生以前からあった。それを克明に教えてくれるのが、フィロン著『フラックスへの反論』である。