『コンスタンティヌスの生涯』エウセビオス

コンスタンティヌスの生涯 (西洋古典叢書)

コンスタンティヌスの生涯 (西洋古典叢書)

キリスト教が変質していくうえで大きな転回点となったのは、たぶん、ローマ皇帝コンスタンティヌスによる公認だろうと踏んだわたしは(誰しもまずはそのへんを考えるだろう)、本邦初訳『コンスタンティヌスの生涯』を読んでみることにした。コンスタンティヌスは、なぜキリスト教を公認したのだろうか?


読んでみて、わたしはこの本の迫力に圧倒された。


エウセビオスに感銘を受けたというのではない。むしろ訳者である秦氏の迫力に圧倒されたというほうが近いけれども、ともかく、エウセビオス v.s. 秦氏の構図が緊迫している。緊迫の構図をざっと箇条書きに風にしてみると、


エウセビオスの盛り上がり方がすごい。彼は途方もなくコンスタンティヌスを持ち上げている。いったいどういう人間がどういう心理状態になると、こういう文章を書き続けられるのか……などと思ってしまうほどだ(おもわず、エッカーマンの『ゲーテとの対話』と比較してしまった)。エウセビオスコンスタンティヌスをモーゼにも、最後の方ではキリストにさえなぞらえているが、イスラム教徒がこれを読んだら、その節操のなさに目を剥くだろう。いやイスラム教徒ではないわたしでさえもあきれた。


●2番目のポイントは、ちょっと視点は変わるけれども(=内容的なことではないが)、秦氏の訳注がすごい。各ページにたくさん訳注がついている。その内容がまたすごい。通常は、訳者あとがきなどに、「原文に(ギリシア語の特徴からして)省略されている固有名詞などは適宜補った」とか「言語の言葉あそびは訳しきれなかった」とか、ひとこと断って終わりにするところだが、秦氏は、「ここで原文にはない固有名詞を補った」とか「ここにはギリシャ語のことば遊びがある」とかいう訳注をいちいちつけていくのだ。これは一種異様な迫力があり、わたしは思わず全部読んでしまった(^^ゞ。こういう訳注を逐一つけてもらうと(普通はここまでやらないし、やるのがいいとも思わないが)、原文の雰囲気がかすかなりとも感じられる思いがする。


秦氏による解説がすごい(長大!)。しっかりエウセビオスのカウンターになっている。エウセビオスの重要な発言を引用しながらの解説なので、解説だけ読んでもエウセビオスの書いた内容はかなりよく把握できる。エウセビオスが「大預言者」「神に愛されし者」のようにコンスタンティヌスを描き出すのに対し、秦氏の描き出すコンスタンティヌスは、教会内部のすったもんだを巧みに利用する辣腕の政治家だ。さらに秦氏は、コンスタンティヌスは結局、受洗していないという説について、突っ込んだ解説をしている(秦氏は、受洗していないという立場をとる)。これは結構衝撃的だ(わたしにとって)。ともかく、エウセビオスの言うとおりに、コンスタンティヌスは臨終のときに洗礼を受けたとしても、臨終のときまで受けなかったということ自体、わたしにとってはビックリ仰天だ。コンスタンティヌスキリスト教の神を信じる立場からいろいろ政治的に行動しているが、なぜ、(少なくとも臨終のときまで)洗礼を受けなかったのか。


秦氏は、解説のほかに、簡潔な「あとがき」を書いている。この「あとがき」もすごい。わたしはその中から1パラグラフを引用せずにはいられない。



 人間エウセビオスの評価とその著作の一つである『生涯』の評価は別である。筆者の人間エウセビオス評価はきわめて低い。「きわめて低い」どころか、最低・最悪そのものである。彼は権力にたいして滅法弱いからである。彼は済度しがたいほど俗物である。彼の反ユダヤ主義は犯罪である。しかし、人間エウセビオスに背を向けても、『コンスタンティヌス』の生涯の重要性は変わらない。そこでの細部の事実がどうであれ、本書はわたしたちに、コンスタンティヌスの登場により、キリスト教が帝国の宗教の仲間入りを果たしたばかりか、帝国統一の道具にしようとしたコンスタンティヌスの思惑のおかげで、キリスト教は、キリストの本質をめぐる観念論争を展開している間に、帝国の唯一の宗教となるための赤絨毯をしかれたことを教えてくれるからである。本書はまた、ある特定の宗教が国家に組み込まれると、他の宗教は一方的に異教とか邪教と規定されて排除されることや、庇護を受けることになる宗教は国家権力による他宗教の弾圧排除を否定しないばかりか、欣喜雀躍としてそのプロセスを見守るようになることも教えてくれる。その意味で、本書は宗教と国家の問題を考える者にとって貴重な資料を提供する、必読の書なのである。


本書は、秦氏のおかげで、つまらないけど我慢して読まなければならない必読の書ではなく、「あまりの迫力に思わず読んでしまう」必読書になっていると思う(^^ゞ。秦氏は、誠心誠意エウセビオスを訳した上で、対決しているのだ。

(この項続く。次回は「反ユダヤ主義」)