『コペンハーゲン』マイケル・フレイン著、小田島恒志訳 劇書房


二十世紀の科学者や科学史にかかわる本を読むとき、わたしにとってまず気になるのは、その本の著者がヴェルナー・ハイゼンベルクをどのように扱っているかだ。もちろん、物理学上の業績だけに触れている本も多いけれど、一般向けの本となると、第二次世界大戦中のハイゼンベルクの行為に言及しているものも少なくない。そして、ハイゼンベルクが表層的に、あるいは戯画的に描かれていたり、鬼畜のごとく言われていたりすると、わたしはとても悲しくなる。


ユダヤ系の物理学者がナチスドイツから他国に逃げ出していく中、ハイゼンベルクはドイツに留まり、ナチスドイツの元で核開発にかかわった。その詳細は、一口で言えることではない(いくら言葉を費やしても言えないということが、後述の『コペンハーゲン』のテーマでもある)。アメリカの友人たちから、アメリカへ来いとの誘いもあったが、ハイゼンベルクはドイツに留まった。そのことが、連合国側を怒らせ、また恐怖させた。ハイゼンベルクに関しては、誘拐計画や暗殺計画が何度かもちあがっている。


ドイツ人がドイツに留まることが、それほどいけないことなのだろうか? 問題は、ハイゼンベルクがただの人ではなかったことだ。彼ほど有力な人物が、外に出てナチスドイツを批判することの意義は大きい。その責任を負わなければならないような位置に、彼はいた。非常に難しい判断ではあっただろうが、しかしわたしは、安直に、「戦争中っていうのはそういう時代だったんだから、彼を責めるわけにはいかない」などと言うことはできない。ドイツと比べて戦争責任というものがあいまいな日本においてはなおさらだ。彼は、有力な知識人として責任を問われてしかるべきなのである。


それでもなお、わたしは第二次大戦中のハイゼンベルクを思うとき、映画『ひまわり』のソフィア・ローレンが彼に重なってくる。無学な女ソフィア・ローレン(の演じる役(^^ゞ)と、恐るべき知性をもつスーパーエリート・ハイゼンベルクのどこが重なるのかと不思議に思われるかも知れない。しかし、「戦争は、なんと大きなものを壊してしまうのだろう、なんと大切なものを引き裂いてしまうのだろう」という思いが、二人を結びつけるのだ。ハイゼンベルクを批判する人は、苦しみと悲しみのなかで批判すべきであって、居丈高に鬼畜呼ばわりしてはいけないと思う。


ハイゼンベルク=鬼畜」路線が主流だったなか、転回点となったのがトマス・パワーズの Heisenberg's War だ。わたしはこの本を読んでとても説得力があると思ったし、ほっとした。ときに我を忘れて罵倒に走ったりする人たちと違い、パワーズは、糾弾するためのネタ探しをしたいのではなく、真実に迫りたいのだということが伝わってきたからだ。なお、邦訳版の訳者である鈴木主税氏は、物理は専門ではないというのに、きちんと確実な処理をなさっていた。この重要で分厚い本が、読みやすい日本語で提供されたことをわたしはほんとに嬉しく思っている。


だが、このパワーズの本は、「ハイゼンベルク寄り」としてアメリカなどでは評判が悪かったようだ(まあ、そうだろう)。そういうとき、The New Yorkerはどういう書評を書くのかな?と気になるところだが^^;、実際、1993年3月8日号に書評が出ている(評者は Daniel Kevles)。わたしとしては、バランスの良い、フェアな書評だと思った。

最後の部分を引用しよう。


Still, while Heisenberg was not a saint, neither was he the devil that Gautsmit saw. The Farm Hall transcripts tend to confirm Powers' reading of the shadow history -- that, in the context of Hitler's Germany, Heisenberg and his circle were deeply ambivalent about their nuclear project, that a moral reluctance to see it succeed contributed to its failure, and that Heisenberg himself, as he confessed to his friend on August 6, 1945, was at "the bottom of my heart really grad that it was to be an engine and not a bomb."


ハウトスミットというのは、戦後ハイゼンベルク鬼畜説の先頭に立った人物だが、両親をアウシュビッツでなくしている。そして、ハイゼンベルクとはかつて親友だった。ハウトシュミットが連合国の調査団として、ドイツ敗北後、ハイゼンベルクらの原子炉実験施設(ハイゼンベルクらは戦争末期、原子炉の研究をやっていた)に入ったとき、そこに彼が見たものは、ハイゼンベルクが飾っていた写真――彼とハウトスミットが並んで写っている写真――だったという。


The New Yorker の書評がパワーズをこき下ろす内容でなくて、ともかくもわたしはほっとした。


この書評から十年以上を経て、このたびマイケル・フレインの『コペンハーゲン』を読んだ(劇としての『コペンハーゲン』のことは知っていたが、残念ながら見そびれて、そのままになっていた。たいへん高い評価を受けた作品だ)。

コペンハーゲン (劇書房BEST PLAY SERIES)

コペンハーゲン (劇書房BEST PLAY SERIES)


これは、戦争のさなか、ハイゼンベルクコペンハーゲンにいる(ドイツ占領下)ボーアを訪ねたときのことを題材にしたものだ。このとき二人の間に何が起こったか。ハイゼンベルクは何をしに行ったのか。


わたしはこの薄い本を読みながら何度も泣いた(ちなみに、作中、ハイゼンベルクは一度も泣いてなんかいない(^^ゞ)。どこを引用するのも不適切な気がするが(一部だけを取り出して引用することが、不適切に思える)、一カ所だけ引いておこう。アメリカのマンハッタン計画を率いたオッペンハイマーが、ヒロシマの夜、爆弾の完成が対ドイツ戦に間に合わなかったことが心残りだと言っていた、という内容に続いて:


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ボーア  後になって、彼は自分を責め続けたよ。

ハイゼンベルク  ええ、そうです、後になって。少なくとも我々は、前もって自分たちを責めました。彼らの中で一人でも、ほんの一瞬でも、立ち止まって自分たちのしていることを考えたものがいたでしょうか? オッペンハイマーは? フェルミは、テラーは、ジラードは? 一九三九年にルーズベルトに手紙を出して原子爆弾開発の予算請求をしたときにアインシュタインは? その二年後に、コペンハーゲンから逃れてロス・アラモスに行ったときの先生は、どうでした?

ボーア  だけど、いいか、ハイゼンベルク君、我々はヒトラーに爆弾を提供しようとはしていない。

ハイゼンベルク そして、ヒトラーに爆弾を落としてもいない。代わりに、手近な人たちの頭上に落としたんです。民間人の年寄りや、母親や、子どもたちの頭上に。もし、開発さえ間に合っていたら、それはわたしの祖国の人たちになっていたでしょう。わたしの妻。わたしの子供たち。そうなるはずだった、ちがいますか?

ボーア  そうなるはずだった。

ハイゼンベルク  町に爆弾を落としたらどうなるかなんて、これっぽっちも考えずに。原子爆弾に限らず、あなた方は誰一人として爆弾というものを経験していない。大空襲の後のある晩、わたしはベルリンの中心部から郊外まで歩いて戻りました。
……
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またハイゼンベルクは劇中、こうも言っている。

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ハイゼンベルク  先生、わたしは知らなければならないんです! 答えを出さなければならないのは、わたしなんです! もし連合国が爆弾を製造しているなら、わたしは祖国のためにどういう選択をすればいいのでしょう? 先生は、国が小さくて無防備だからといって、その国民の愛国心まで小さいと考えるのは誤りだとおっしゃった。確かにそうでしょう。そして、たまたま国が間違った方向に向かったからといって、それだけで愛国心が小さくなると考えるのもやはり誤りなんです。ドイツはわたしの生まれた国です。今のわたしがあるのはすべてドイツのおかげです。わたしの子ども時代を見守ってくれた顔、転んだときに助け起こしてくれた手、いつも励まして、道を教えてくれた声、わたしの心に語りかける心、そのすべてがドイツなのです。ドイツは夫を亡くした母であり、手のかかる弟です。わたしの妻であり、わたしの子供たちです。彼らのために、自分が何を決断しようとしているのか知りたいのです! ……

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わたしなら、あなたなら、はたしてどうするだろうか?



コペンハーゲン』は、劇作品としての深さという点でもみごとだが、もうひとつ、作者マイケル・フレインが書いている長大な「作者あとがき」は、ハイゼンベルクのことを知りたいと思う人にとって必読だ。そこにはハイゼンベルク評論の歴史が分析されている。(なお、そこに何度も登場し、フレインが「もっとも事情に通じいてもっとも公平な視野の持ち主」としている物理学者で科学史家のジェレミーバーンスタインは、指揮者レナード・バーンスタインの弟だ。ユダヤ人だが、ナチスに追われてきたわけではなくニューヨーク育ちで、あまりユダヤ的とはいえない家庭だったという。二十年前のthe new yorkerに彼の自伝が載っていた^^;)


もしもこの読書メモを読んで、ハイゼンベルクのことを知りたいと思った人、あるいはこれまでのハイゼンベルク観を見直してみたいと思った人がいたら、どうか、いちど『コペンハーゲン』を読んでみてほしい。その結果、ハイゼンベルクをどう思うかは人それぞれだろう。だが、『コペンハーゲン』が、作品としても「作者あとがき」としても、深いものだという点は請け合える。


最後にひとつ。鬼畜路線の先頭に立っていたように見えたハウトスミットだが、その後しだいに路線を変えた。ハイゼンベルクの死に際し、ハウトスミットが述べた言葉を挙げておこう(『コペンハーゲン』の「作者あとがき」より)


ハイゼンベルクは偉大な物理学者で、奥の深い思想家で、素晴らしい人間であると同時に、勇気ある人物でもあった。我々の時代の最も偉大な物理学者の一人だったが、狂信的な同業者からの不当な攻撃に苦しめられた。私の意見では、彼はある意味においてナチス体制の犠牲者だったと見なされるべきである」


ハウトスミットもまた、大切なものをたくさん引き裂かれたのだ。


   余談だが、思想家としてのハイゼンベルクについては、
   1994年頃の朝日新聞中村雄二郎氏が連載していた人
   類知抄が、短い記事ながらさすがに鋭く深くまとまっ
   ていると思った。また、ハイゼンベルクの短い文章と
   しては、ゲーテの色彩論に関するものがみごとだ。