『天文対話』ガリレオ・ガリレイ

天文対話〈上〉 (岩波文庫)

天文対話〈上〉 (岩波文庫)


いまごろ〜(^^ゞだが、ガリレオ・ガリレイの『天文対話』を通読した。これまで『新科学対話』や『贋金鑑識官』や『レ・メカニケ』などを読んだ(というよりめくった)ことはあったが、どうやらわたしは一番面白い本(『天文対話』)を後回しにしてしまったようだ。


『新科学対話』について言えば、この段階のガリレオにとっては三人の登場人物による対話形式を取るメリットはあまりなくなっていて、わたしとしても、むしろニュートンの『光学』のスタイルで書いてしまった方が、読者にとってもわかりやすかったのでは?などと思ってしまったぐらいだった。


それに対して『天文対話』では、三人の対話というスタイルが強く成功している。個人的な好みを言えば(というより、感情移入という点で言うと)、逍遙学派(アリストテレス主義者)のシンプリチオが一番魅力的だと思った。はたしてわたしは、シンプリチオと同じように逍遙学派の学問をバックグラウンドとする立場にありながら、彼ほど心を開いて、新しい知識に興奮し、前向きに議論に参加することができるだろうか?


サルアヴィアチはシンプリチオのことを、「悪意のかけらもない人」と言っているが、まったくその通り。シンプリチオのような人がいるなら、逍遙学派も捨てたものではない。


以下、自分にとって大事な点を、頭から消えないうちにメモっていこうといささかあわてているが(最近記憶力が……)


アリストテレスと感覚・観察

まず、ガリレオアリストテレス観についていうと、「もしアリストテレスが天に発見された新しいものを見れば、自分の意見を変え、書物を訂正し、より明らかな学問に近づいたであろう……」(上p169)とか、「アリストテレスがこの時代におればきっとその意見を変えたに違いない……」(上p.82)と書いていることはよく知られているが、わたしが面白かったのは、シンプリチオが「アリストテレスは論理によって学問をやっている」と主張したのに対してサルヴィアチが、「論理的なのは彼が本を書くときのスタイルであって、アリストテレスは自然観察にもとづいてその学問を作り上げている」と反論している点だ。これはもう、わたしもまったくその通りだと思っていて、アリストテレスの学問は現象論的にも優れていると思っているので、ガリレオの手を取って握手したいほどだった。


アリストテレスはたしかに論理重視のスタイルで書いているが、トマス・アクィナスなんかの書きぶりとは何かが決定的に違うように思うのだ。


この点、ガリレオアリストテレスと逍遙学派(アリストテレス主義者)とをきっちり使い分けている。(ただし、数カ所、うっかり筆が滑っているところもあるが、気持ちの上では厳密に区別していると思う)。


アリストテレスと数学


興味深いのは、四カ所ほど、数学と自然的学問との関係について言及されていたことだ。


・上p304 サルヴィアチ
 「もっとも、ぼくはシムプリチオ君が数学は理性を腐敗させ、観想できなくしてしまうといって弟子たちにその研究をしないほうがよいと勧める逍遙学派の仲間だとは思いませんがね」


・上p.343 シンプリチオ
 「自然的科学においては、正確な数学的明証製性を求める必要はありません」


・う、あと一カ所あったと思うが出てこない……


・下p.165 シンプリチオ
 「これは(ぼくの見解を素直に言うとすれば)アリストテレスがそのことでプラトンを非難したあの幾何学的精妙さのように思えます。アリストテレスプラトンが、幾何学をあまりにも研究しすぎて健全な哲学遠ざかっているといって責めています。またぼくは偉大な逍遙学派の哲学者たちがその弟子たちに、数学を研究すると知性があら探しをするようになり、またよく哲学できないようになるからといってその研究をしないようにすすめているのを知っていますし、聞いたことがあります。これはまず幾何学を自分のものとしなければ哲学に入ることを許さなかったプラトンの訓とは正反対のものです」


わたしとしては、ピュタゴラスプラトンの数や幾何学重視には首をかしげる点もあり、紀元前四世紀の段階でアリストテレスが述べたことは、バランスも良く、良識的でまっとうだと思う。


だが、ケプラーが惑星運動に関する三法則を見出し、ガリレオも落下の法則をつかんでいたこの十七世紀に(二千年を経て)、アリストテレスの発言を持ち出すのはなかなかイタイ。しかしまあ、当時の逍遙学派の数学観をかいま見るようで面白い。


ガリレオと円環

二カ所、ガリレオが円に奇妙にこだわっている場所がある。どうやらまだ円環は完全には破壊されていないようだ。それはそうだろう。やっぱり新しい美意識の確立はニュートン以降のようだ。



■学問的宇宙論に混入する神話的宇宙論

シンプリチオは徹底的にアリストテレスの学問をたたき込まれているのだが(したがって、地は不活性でいやしく、もっとも下等なのだが)、一カ所だけ神話的(キリスト教的)ナイーブな宇宙観が顔を出している。

上p.96
「というのは、天体、すなわち太陽、月、その他の星は大地に仕える以外の役目を命じられておいおらず……」

すぐにサグレドに反論されているが。


ガリレオの相対性原理、慣性の法則、落体の法則

わたしはかつて大学教養部で力学を教えたとき、ニュートンの法則から出発しさえすればいいことを改めて痛感して、ニュートンのすごさに思いを致した。ニュートンの法則を黒板に書いてしまえば、それ以前の苦闘の道のりは知らなくてもまったく困らないのだ。


ガリレオの『天文対話』は、そのかなりの部分は地上の自然学である(そこがコペルニクス理論の争点だから)。彼は誠心誠意、考えられるあらゆる角度から(それができるためには同僚や学生たちとの分厚い議論もあったことだろう)、自然学の塗り替えのために熱弁を振るい、膨大なページ数を割いている。上記三つの点を「あたりまえのこと」にするまでには、別の自然学をもつ人々を相手にこれだけ論争しなければならなかったのだなぁ〜という、当たり前のことが実感できる。


ガリレオの相対性原理」とのちに呼ばれることになる原理は、かくも理解の困難なことだったのか……


慣性の法則は、ガリレオもまだきちんと確立してなくて、だいたい概念は掴んでいて丹念に議論してはいるが、揺れがある。


落体の方はきっちり確立しているようだが、「またの機会に」ということで、結果の紹介に留まっている。


と、このように見てくると、ガリレオは『天文対話』で、自分としてもまだあやふやな部分にこをページ数を費やしているとも言える。まあ、それはそうだろう。


ガリレオ潮汐

ところで『天文対話』を、ガリレオはもともと『潮汐論』と題するつもりだったそうだ。それを、かのウルバヌス8世が、「世界の二大大系に関する……」という現行のタイトルに変えることを提案したのだという。


ガリレオ潮汐論は的はずれだが、彼はこれを地動説を支持する決定的証拠として自信をもっていたし、ウルバヌス八世もガリレオ潮汐論は正しいものと(したがって地動説をゆるぎなくするものと)みたようだ。結果的に、『世界の二大大系に関する……』になったことで、ガリレオの大間違いは目立たなくなり、本書『天文対話』はコペルニクス大系を支持する決定的な貢献とみられるようになったと思われ、この点、ウルバヌス八世の思惑は曲がりくねってハズレたと言えるかもしれない。


ガリレオは本書の中でケプラー潮汐論(月の影響)をわざわざ取り上げて、「あのケプラーともあろう人が」と批判している。これは全然笑い事ではなくて、わたしがその場にいたら、ガリレオの説の方が(たとえ現状では定量性を欠いていたとしても)もっともらしいと思ってしまいそうだ。自然の理解は一筋縄ではいかない。


コペルニクスアリストテレスプトレマイオスと観察

良く目にする記述として、アリストテレスプトレマイオスは机上の空論で観察ということをしていない。それに対してコペルニクスは観察にもとづき、従来の概念を打ち破った、というものがある。

わたしはこれは「?」だと思っているが、ガリレイもやっぱり、↑なふうには思っていないのだった。彼は繰り返し、コペルニクスの説は感覚に反している、という点に驚嘆しているのだ。

訳者青木氏がまとめているのを引用すると下p.284

「そしてまたガリレイが繰り返し述べることば、コペルニクスにおいてはなんとその理性が感覚的経験に暴力を加えていることか、という感嘆は、たんなる経験の積み重ねによってはけっして科学が前進するものではないことを、とくにその発展の転換期においてはそうであることを明示したものであったろう。」


■17世紀逍遙学派の実態

ところで、ガリレオが徹底的に攻撃する十七世紀逍遙学派の実態だが、ほんとのところはどんなものだったのだろう? ガリレオの描写はかなり現実をそのままに写していると思っていいのだろうか? いいような気もするし、よくないような気もする。これは宿題。


アリストテレスは良く読まれている。

天について (西洋古典叢書)

天について (西洋古典叢書)

それにしても、シンプリキオスはいうまでもなく、サルヴィアチもサグレドも(したがってガリレオは)、なんとよくアリストテレスを読んでいることだろう。あの薄い、アリストテレス『天について』のなかで、『天文対話』で言及されていない点はないんじゃないかと思うほどだ。


そして、わたしなんかが「軽いノリの関連話題提供だな」と思って読んでいる部分を、アリストテレスによるごりごりの主張として受け止めているようだ(少なくともシンプリキオスは)。


たとえば『天について』冒頭の、この世界は三次元だという話のところで、アリストテレスはごく普通に、方向が三つあるから三次元だ、という話をしたあと、わたしの目にはほんの「関連話題提供」として、次のように書いている。

なぜなら、ピュタゴラスの徒も言うように、全宇宙とそのうちにあるすべてのものは、三によって限定されるからだ。というのは、終わりと中とはじめは、全体であることの特性を示す数を成しており、それらの数は三だからである。それゆえ、われわれは自然から、あたかも、その法則のごときものとして、[3なる数を]受け取って、神々を崇める場合にもそれを用いているのである[誓いは普通、ゼウス、アテネアポロンの三神に対してなされる]


この部分を、わたしのように「関連ネタ提供」と読むのがアリストテレスのノリに合っているのか、あるいはシンプリチオのように「論理的証明(っていえるのか?)」として読むのが適切なのか、素人のわたしにはわからないけれど、それでもなお、あまり一字一句金科玉条にされたら、アリストテレスだって困惑するんじゃないかと思わずにはいられない(^^ゞ


■数学的抽象化を支持する議論


上p.310あたりから始まる数学的抽象化に関するシンプリチオの疑念と、サルヴィアチの回答は、わたしにとってはとても重要でかつ面白かった。数学的に理想化された球とか平面とかいうものは現実には存在せず、それゆえ数学的な議論は無効だという主張にどう立ち向かうのか。

わたしたちは、質点や剛体という概念の有効性を知っているから平気でそれを受け入れるが、有効性がわかっていないときに、数学的抽象化に向かって舵を取るのは大変だ。ガリレオが、ぐぐぐぐっと、梶を切るようすが見えるようで、感動した。


ニュートンの運動法則を黒板に書く前に自問しなければならないこと

わたしたちは、ニュートンの運動法則を知らないことにして、もういっぺん自力で考える努力をしてみるといいと思う。ほんの一瞬でいいから。