『社会生物学論争史2』
- 作者: ウリカセーゲルストローレ,Ullica Segerstrale,垂水雄二
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2005/02/23
- メディア: 単行本
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「1」のほうですでに、ルウォンティンら、社会生物学を批判する陣営のやり方にはちょっとおかしな点があったわけだが、「2」に入ると、これはもう完全におかしいと言わざるを得なくなる。
どこがおかしいのか?
かいつまんで言うと、ウィルソンがその著書の中で「Aではない」と主張したとすると、批判する陣営は、「ウィルソンはAと言った」と非難するのだ。もちろんウィルソンはAと言った――ただし否定の文脈で。
こういう文脈無視の「引用」をしてしまった段階で、批判者陣営の信用は地に落ちるし、社会生物学論争については白黒ついたとも考えられよう。この論争は「作られた論争」であり、「ルウォンティンらにはエライ時間の浪費をさせられたぜぃ」……と、言う人たちも実際いたようだ。
だが、「白黒つけただけで止めてしまったら、何もわかりはしない」というのが著者セーゲルストローレの考えなのだ。セーゲルストローレはここから本格的に分析をはじめる。さまざまな座標軸を持ち込みながら、いったいここでは何が問題だったのか、何が起こっていたのかを明らかにしていく。
彼女が持ち込む座標軸はいろいろあって(つまり多面的、多次元的な分析なのだ)、それぞれに興味深いが、ここでは二点だけ、とくにわたしにとって面白かった軸について書いておきたい。
■科学理論のありかた
びっくりしたのは、ルウォンティンの主張を見ていくと、「理論に含まれる量はすべて物質的(分子的)基盤をもたなければならない」という思想があるみたいなのだ。そうなると、たとえば平均身長みたいな量も、分子的基盤を持たない統計的構成物だからダメっていうことになる。
これはすごい話なのであって、そんなことでは何もできやしない(理論なんて作れないよ)と思うのだが……。ルウォンティンのような優れた科学者で、なおかつこういう科学理論観をもっている人が現にいる、というのは、わたしにとって実に興味深い話ではある。
■還元主義、反還元主義
出ないはずはないと思っていた還元主義V.S.反還元主義論争もやっぱり登場して、これまたたいへんに興味深かった。
まあ、一般論として、還元主義というのは実績のある科学の方法論だが、反還元主義(全体論であることが多いが、必ずしもそうとは限らない)は思想だから、反還元主義者の主張を受け止めるには、その思想の根っこを探らないといけない。
今の場合、ルウォンティン、ローズ、カミン、グールドらが「反還元主義」の立場からウィルソン(彼らに言わせれば還元主義者)を批判することになる。で、ルウォンティンにとって還元主義とは何かを見ていくと、
還元主義=生物学決定論=社会的悪
であるようだ。こういう還元主義観があることは肝に銘じておかなければならない。さらに興味深いのは、通常の科学的方法論の観点から言うとどう見てもスーパー還元主義者であるルウォンティンが、思想的には全体論的傾向をもつウィルソンを還元主義者として批判していることだ(まあ、ウィルソンは全体論者というよりは生物学帝国主義者といほうが適切かも知れないが)。このねじれは、還元主義の定義は人それぞれだ、という事実をくっきりと浮かび上がらせる。
■オペラの登場人物としてのセーゲルストローレ
さて、深くて詳細な分析ののち、社会学者セーゲルストローレの本領発揮となる(ように、わたしには思えた)。その気配が伺えた段階で、わたしは一抹の不安を覚えた(^^ゞ
「あーあ、時間の無駄だったぜ、やれやれ」という大方の見方に対して、まさか、「ウィルソンとルウォンティンに関しては、どっちも何も無駄にはしていないんですよ。グールドとドーキンスに至っては、どっちも大儲けでした、チャンチャン」といった終わり方にはなるまいね? と疑ってしまったのだ(^^ゞ。 しかし、ここまで丹念な分析を続けてきたセーゲルストローレが、そんな軽薄なことをするはずもなく、そういう相対主義的な立場も分析の対象になっていく。
しかし、ほんとの終盤になって、わたしはいささか衝撃を受けた。彼女はカール・セーガンについて次のように書いているのだ。
セーガンが、科学は批判的かつ懐疑的な態度を呼び覚ます助けになると信じていたのは明らかである。しかし彼こそ、私たちに膨大な数の星があるのを認識するよう教え、有名なテレビ番組『コスモス』で、視聴者の心に驚きと畏怖を注ぎ込んだあのセーガンと同じ人物だった!
はて、このビックリマークはなんだろう? セーガンにとって、「批判的、懐疑的であること」と、「驚き、畏怖すること」とは、科学の重要な二本の柱だったはずだ。そこには何も矛盾はないのだ。わたしとしても、批判的に考えること、疑うことは止められないし、驚き、畏怖する気持ちも大好きだ。そのすべてを味わわせてくれる科学が、わたしは好きだ。しかしセーゲルストローレにとって、批判的、懐疑的であることと(こっちは科学の特性として彼女も認めているのだろう)、驚き、畏怖することとは、矛盾するらしい。もしそうだとするなら、それはまたずいぶんやせ細った科学観ではないだろうか?
さらに彼女はドーキンスについてこう書く。
ドーキンスは、『ヒューマニスト』誌に書いた別の論文で警告する。宗教の野心(原文ambitionだろうと推測する)、科学と同じ事柄を説明することなのだ!
はて、このビックリマークはなんだろう? 宗教も、科学も、人間を含むこの世界のいっさいを説明しようとする。それがバッティングするのは当たり前だ。生物学の領域も熾烈だが、宇宙論の領域だって人が火あぶりになっている。
その先を読んでいくと、セーゲルストローレは社会学者として、そして一個の人間として、どうやら宗教の方が科学よりも重いと考えているように思われる。科学が人間にとってどれだけ必要かはわからないが、宗教は必須だ、と。だが、宗教の比重は歴史の中で変わっている。そして科学はたしかに後発だ。彼女は、自分の言うところの、「である」→「であるべき」をやらかしていないだろうか? しかしいずれにせよ、これが難しい問題であるのは間違いない。
「である」→「であるべき」だけではない。このあたりには、彼女のいうところの「引っ張り込みのテクニック」もかいま見える。上記ビックリマークの使用は、「引っ張り込みのテクニック」ではないのだろうか?(読者を意図的に引っ張り込もうとしているのか、あるいはナイーブに、読者はみんな彼女に共感してくれると思っているのか?)
とまあ、こんなふうにして、彼女が冷静で公正な分析者の立場から踏み出し、登場人物の一人になりかかってくると、これまで彼女が他の登場事物に向かって投げかけた言葉が、弱いこだまとなって彼女に降りかかっていくようにも見えるのだ。それは文字通りドラマティックな情景だ。さらにその言葉は、わたしにも降りかかってきた。わたしが(セーガン、ドーキンスと同じ立ち位置にいる人間だと、改めて思い知ったわけだが(^^ゞ)素直に自分の考えを述べれば、セーゲルストローレのような人からは、ビックリマーク付きで引用されるのだなぁ……と(^^ゞ
彼女は、きっと、これを読んだみんなを「オペラ」の舞台に引っ張り込むのだ。そして、それは正しい。科学と社会について考えるには、これは必読文献だとわたしは思う。社会生物学論争について自力でこれだけのパースペクティブをもつことは、わたしには逆立ちしたって無理だった。労作に感謝したい。
担当編集者さんに小さな要望をひとつ。左ページ上の「章タイトル」のところ、章番号も付けてもらえるととてもありがたかったです。