『社会生物学論争史 1』ウリカ・セーゲルストローレ著 垂水雄二訳

社会生物学論争史〈1〉―誰もが真理を擁護していた

社会生物学論争史〈1〉―誰もが真理を擁護していた


わたしは理論物理の出身だ。この分野は、人間社会のモラルとはかなり遠いところにある。たとえば、核子の集団運動について研究することから、人間集団のあるべき姿について何か示唆が得られるだろうと考える者はいない。あるいはまた、陽子と中性子が、核子という同じ一つのもののアイソスピン状態が違うだけだと述べることが、人間社会のダブルスタンダードに対して問題を提起することになると思う者もいない。


そんなバックグラウンドをもつわたしにとって、本書に書かれていることは、頭ではわかっていたとはいえ(社会ダーウィニズムの歴史とかはわたしでもそれなりに知っている)、問題は過去のものではなく、現在も、そして未来にも、ずっと続くはずのものであること、そしてなにより、生物学研究者は人間社会に関する自分の思想をここまで研究現場に持ち込んでいるのかという点に驚かされた。いや、驚かされたというより、これは非常にしんどいことだと思わされた(もちろん、しんどいのはわたしであって、当の生物学者たちはそこが面白く、やりがいのある点だと思うのだろう)。


著者のウリカ・セーゲルストローレは、ウィルソンの『社会生物学』の出版にはじまる論争のいきさつを、できるかぎり公正に描き出し、何が起こっていたのかを克明に伝えようとしている。


素朴に見れば、「社会生物学」を批判する陣営であるルウォンティン、ローズ、レヴィンス、グールドたちは、ときに誠実さに欠け、ふざけているようにも、もっと言えば卑怯にさえ見えることがある。(ジム・ワトソンが著書『DNA』のなかで、「どんなイデオロギーも科学にとっては有害だ」というようなことを言っていたが、その背景には、この社会生物学論争のこともあったのだろうなと思わされた。)


それに対して、批判された側のウィルソンは終始一貫大まじめに見えるし、ドーキンスは明晰なだけでなく、忍耐づよく、教育的であるように見える。


だが、ここでわたしは自戒しなければならないと思うのだ。ルウォンティンらを不公正だとして批判するのは、むしろ簡単なことなのだろう。なんといってもわたしは、これまでドーキンスの著作を読んで嫌な感じを受けたことのない人間だ。理論物理出身でドーキンスに違和感のないわたしが、ルウォンティンに不公正を感じるのは当たり前すぎるのではないだろうか?


わたしが自分に対して懸念している点は、ある女性研究者が(名前忘れた^ゞ)、「社会的に悪用されるかも知れない科学理論は、初動段階でどれほど叩いても叩きすぎることはない」(文章、記憶で書いています(^^ゞ)と述べていたことと関係がある(ウィルソンの「社会生物学」は、どれほど叩いても叩きすぎることはないという趣旨)。わたしたちは現に人間社会の中で生きているのだから、科学理論の悪用には、どれほど警戒しても警戒しすぎることはないという意見は、重く受け止めなければならない。実際本書には、「やっぱりそう来るか」と思わされるような政治家の発言も引用されている(まあ、簡単に言えば、「社会生物学」の考え方を飛躍させ、「戦争は不可避だ」と言うようなもの)。


それでもなお、「知ることからしか始まらない」という立場を、わたしはやっぱり捨てられない。「知って良いことと悪いことの線引きをしているのは誰なのか?」という問いをまじめに考えるならば、「己の分を知れ」というような主張に屈することはできない。だからチョムスキーのスタンスはちょっとショックだ(チョムスキーについては下巻でまた取り上げるようなので、注視していきたい)。


とにかくこの上巻では、「社会生物学」をめぐる人間模様を見て、わたしは自分の立ち位置というものを思い知らされた気がする。下巻では、社会生物学論争が、ヒトゲノム・プロジェクトをめぐる論争や、いわゆる「サイエンス・ウォーズ」に解体、発展していくようすを見させてもらうつもりだ。