『風のしるし』舘野泉

わたしがはじめて左手のためのピアノ曲に興味をもったのは、上の息子が右手を痛め、課題としてスクリャービンの「左手のための二つの小品」をもらって練習しているのを間近で聞いたときだった。「いったいこれは何だろう?」と、ハッとさせられた。その曲は透明で美しく、左手の動きも美しかった。その透明感は、デュオピアノ→ソロピアノ によって増す透明感をさらに突き詰めたような感じ、とでも言えばいいのか。とにかく、「左手の曲」ということでわたしが連想した貧しい音とはまるで違っていた。


「左手のためのピアノ曲って、どういうことなんだろう?」……この問題の落としどころは、「音楽に、五本の指も、十本の指もない」といったあたりになるのだろう(^_^;)。 答えはおおよそ見えているのだけれど、ひとつひとつの曲、ひとつひとつの演奏に出会いながらその答えを実感していくプロセスはなかなか楽しいと思うのだ。


さて、2002年に脳溢血で倒れ、右手が利かなくなった舘野泉氏が、左手のための曲を集めてCDを出した。

風のしるし-左手のためのピアノ作品集

風のしるし-左手のためのピアノ作品集


上述のスクリャービンも含まれていて、みずみずしくのびやかな演奏だ。舘野氏のライナーノートによれば、最近ロシアのピアニストのなかには、この曲を両手で弾く人たちもいるという。「難しいからというより、考え方も変わってきているのだろう」とのこと。それはそれで興味深い。


ところで『風のしるし』には、バッハ/ブラームスシャコンヌが含まれている。舘野氏によれば、これまでブラームスによるこの左手のための編曲はあまり評判がよくなかったのだそうだ。「あの壮大なパイプオルガンのようなブゾーニのピアノ編曲なら理解も出来るが、ピアノで延々と単旋律の動きが続くブラームスの曲なんて、ほとんど聞くに耐えないというのだ」と。


しかし舘野氏自信は、実際にこの曲に触れてみて、それまでの見方が変わる。これはすごい編曲だ、と。実際、心にしみいる演奏となっている。


わたし自身は、ウゴルスキの演奏でこの編曲にすでに出会っていたので、評判が悪いとはつゆ知らなかった(^^ゞ ウゴルスキは、ものすごい集中力と構成力でシャコンヌを弾ききる。演奏が進むにつれて聞く側σ(^^;)のテンションもあがり、最後は大きく感動させられる。

ブラームス : ピアノ・ソナタ第1番ハ長調

ブラームス : ピアノ・ソナタ第1番ハ長調


ウゴルスキスクリャービンの左手のための曲も弾いている。

ウゴルスキ・ピアノ・リサイタル

ウゴルスキ・ピアノ・リサイタル


これはもうすごいとしか言いようのない演奏だ。ひとつひとつの音を、出だしから消えるところまでコントロールしきっていて、「恐れ入りました」とひれ伏すしかない。左手にこれほどの表現力をもっていることは、ウゴルスキの他の演奏の密度にも反映されているんだろうな。ウゴルスキはなぜ左手のための曲を弾くのだろう? 彼はここまでの力量を持つ左手に、ソロをやらせてみたいのだろうか。


なお、わたしは、アムステルダムの運河にかかる橋の上で行われたウゴルスキの野外演奏会のビデオというものをもっている。演奏会は、赤い夕暮れの光の中ではじまり、スクリャービンのこの曲が弾かれるころには、街は青紫の光のなかに沈んでいる。人びとは運河沿いの通路に椅子を並べ、あるいは運河に船を係留して、ワインを飲んだり軽い食事をしたりしながら幸せそうに音楽を聴いている。


スタジオ録音のスクリャービンは凝りまくりの演奏だが、運河でのウゴルスキは、自然な時間の流れのなかでスクリャービンを奏でていく。これもまたすばらしい。セッティングが素敵すぎるから? ともかく、どちらの演奏も聴いて欲しいと思わずにはいられない。ビデオをDVDにして、配って歩きたいぐらいだ(やりませんが(^^ゞ)