『ジョン・ダン全詩集』(名古屋大学出版会)

ジョン・ダン全詩集

ジョン・ダン全詩集

わたしは、日本語のものであれ、外国語のものであれ、詩について何かものが言えるような人間ではないので(という自覚がはっきりとある)、ジョン・ダンの詩そのものについて何か言うつもりはない。


とは言いながら、ひとことだけ言っておくと^^;(全部読んだわけではなく、あちこちつまみ読みしただけ)、ジョン・ダンの作品にはかなり突拍子もない部分があり、しかもその表現が大げさで、話の流れから著しく脱線しているように見えることもある。が、(ポープとはちがって^^;)、表層的な感じはまったく受けない。というか、わたし的にはかなり面白い。たとえばエリザベス一世の追悼歌で長々と宇宙論に出くわすとは思わなかったが、しかしその内容は興味深く、言葉の選び方も、「筆が滑った」感じはない(それは翻訳のおかげでもあるのだろうけど)。ジョン・ダンの作品を系統的に調べていったらさぞ面白かろうと思わされる。


作品についてはこれぐらいにして(^^ゞ、面白いのはやっぱり訳者である湯浅信之氏の解説である。湯浅氏は、ジョン・ダンの魅力は大きく分けて三つあるとし、

1 彼の生きた時代がイギリスの歴史の中でも最も複雑な政治的、宗教的要素を抱えていたこと。

2 彼の人生が紆余曲折に溢れ、大変に難しい決断の連続であったこと。

3 彼の詩がその個性的な表現形式の故に、イギリスの文学史の中で絶えず問題視されてきたこと。

を上げている。「解説」では、1と2にはさらっと触れるに止め(それでもわたしにはとても面白かった)、3が丹念に説明されているのだが、これが実に面白かった。おおざっぱに言うと、死んだ時点では評価がかなり高く、その後だんだん落ち始めてどんぞこまで行ったあと、コールリッジによってどかんと上がり、現在、日本でも研究論文増加中ということである。


わたしとしては、ジョン・ダンのどこがどう評価され(あるいは嫌われ)、誰がどういう見方をしたか、という話自体興味深かったが、ここでは、「解説」の最後近くのひとことにこだわりたい(^^ゞ

それは(p.690)

……ダンに関する日本での研究論文は年を追って増加の傾向にあることが読み取れる。このこと自体は大変喜ばしいことであるが、多くの研究論文は日本語で書かれているため、世界の批評史の流れに一石を投じることになっていないのは残念である。


という部分である。これはほんとに残念なことである。もちろん、理論の整合性や実験の妥当性が本質的に重要な理系論文とちがって、文系論文の場合は、ことばでどれだけ魅力ある説得ができるか、有効な提示ができるということも大きな要素になるだろうから、理系とはくらべものにならないぐらい大変だとは思う。しかしそれでも、やっぱりその分野でサーキュレーションの高い言語で論文を書かないとだめだと思うのだ。



文系研究者のみなさま! 研究論文はサーキュレーションの高い言語で書いて世界の土俵で勝負し、このような訳業や一般向けの本は、わたしたちのために日本語で書いてください!


それと、「解説」ではなく「あとがき」だが、湯浅氏はこう述べている。

翻訳は解釈である、と私は思っている。それは一つの解釈であるから、翻訳は幾通りあってもよいし、時代が変われば新しい翻訳が求められることになる。しかし、解釈である以上、翻訳を邪道のように考えて欲しくない。ルネッサンスの英国で、また、明治時代の日本で、翻訳がなされなかったら文化の進歩はなかったと思われる。しかし、翻訳は恐ろしいものでもある。訳者の理解の及ばなかったところは、誤訳となって現れるからである。

これはほんとうに、深くうなずきながら読んだ。そして、嬉しかった。こういうかっちりした仕事をなさるかたが、「翻訳は解釈である」と思っておられることが。なにしろ文系研究者のなかには、「翻訳に解釈を入れるべきではない」と言う人がけっこういるようなのだ。わたしもまた、(僭越ながら)湯浅氏と同じように、翻訳は解釈である(=翻訳者が理解に努め、表現しなければならないものである)と思っている。「解釈のない翻訳」などというものは、原文を理解するための手引きでしかないと思う(ウェブ上にもある「自動翻訳」と五十歩百歩、といったら言い過ぎだろうけど(^^ゞ)。



ジョン・ダンの全詩集の翻訳としては、これがはじめての本だそうである。大変な仕事をひとりで成し遂げられた湯浅氏に、(僭越ながら)おめでとうございますと申し上げたい。


↓湯浅氏の「自著を語る」を見つけたので貼っておく。

http://home.hiroshima-u.ac.jp/forum/30-1/jityo1.html