『何と少ししか覚えていないことだろう』(吉岡書店)

delphica2004-12-26


副題 原子と戦争の時代を生きて

何と少ししか覚えていないことだろう―原子と戦争の時代を生きて

何と少ししか覚えていないことだろう―原子と戦争の時代を生きて


オットー・フリッシュは、ポーランド出身のユダヤ人を父とし、名家の出身でステージ・ピアニストであった魅力的な女性を母として、1904年、ウィーンに生まれた。母方の叔母は、最近伝記が邦訳出版されたばかりの女性物理学者リーゼ・マイトナーである。

リーゼ・マイトナー―嵐の時代を生き抜いた女性科学者

リーゼ・マイトナー―嵐の時代を生き抜いた女性科学者


フリッシュはこの叔母とともに核分裂の発見に加わり、のちにフリッシュ=パイエルスのメモによって核兵器の可能性を示唆し、アメリカからイギリスに戻ってからはキャベンディッシュ研究所で核物理学研究を率いる立場に立った(が、実際には、あまりその分野を率いなかったことは後述の通り)。

この時代に、ユダヤ人としてウィーンに生まれ、また核物理学者として重要な発見をしたことから想像がつくように、その本の目次は次のようなものとなっている。

第一章 ウィーン
第二章 原子
第三章 ベルリン
第四章 ハンブルグ
第五章 原子核
第六章 ロンドン
第七章 デンマーク
第八章 デンマーク
第九章 原子核からのエネルギー
第十章 バーミンガム
第十一章 リバプール
第十二章 ロスアラモス
第十三章 ロスアラモス
第十四章 研究の再開
第十五章 イギリスへ帰る
第十六章 ケンブリッジ


ところが、実際の本文を読んでみると、そこには著者の経歴や章タイトルからは想像もつかないような世界が広がっている。苦難と苦渋にみちた回顧録かと思いきや、「どうして?」と思ってしまうほど、このおじさんは愉快なこと、楽しいことばかり覚えているのだ……ほとんど、切ないほどに。そして本書の最後の言葉は、なんと、「私は幸運な男だ」なのだ。そんなばかな、と思いたくなるけれど、この自伝を読めば、この言葉にウソ偽りはないことがわかる。オットー・フリッシュは、そういう人物だったのだ。


本書の訳者あとがきには、もうひとつ、フリッシュをめぐる興味深い情報が添えられている。フリッシュはキャベンディッシュ研究所で核物理学を率いる立場に立った(立たされた?)。しかし彼は、大規模な時期計画を立案したり、そのための予算を取ってきたりするようなことはまったく不向きだったらしい。そういう政治的な役割が期待されていたときに、彼は何か自分で工作してやろうと、部品屋を物色していたという。


歴史は彼に、なんと不似合いなことをさせたのだろう。でも、きっと彼はそれでも幸せだったのだ。こんな巡り合わせでも幸せいられる人が、ここにいる。