the new yorker february 13&20 2006

annals of religion
THE SAINTLY SINNER
the two-thousand-year obsession with Mary Madalene
by Joan Acocella


ユダの福音書」がユダヤ人問題を提起したとすれば、ナグ・ハマディ文書に含まれる「マグダラのマリア福音書」はフェミニズムに直結する問題を提起した。キリスト教会がセクシストであることは、「ナグ・ハマディ」がどうこういうまでもなく自明のことだと思うが、しかしやはり「ナグ・ハマディ」による問題提起の力は大きかったようで、キリスト教会内の性差別主義の見直しにつながる面はあったようだし、少なくとも、マグダラのマリアの実像については大きな問題を投げかけたようだ。


というわけで、この問題について論じた上記記事の中から、マグダラのマリアに関連する歴史的流れをざっとピックアップしておさらいしておく。


ナグ・ハマディ文書公開以前


・まず新約聖書中のマグダラのマリアに関する記述だが、14カ所に言及がある。
  ルカとマルコは、彼女がイエスに悪霊払いをしてもらったと言っている。
  また、イエスに従った何人かの婦人のひとりだったと言っている。
  四つの共観福音書のすべてが、彼女は磔刑の場にいたと述べている。
  いずれにせよ、イエスが死ぬまでは、彼女の役割は小さい。


・ところがイエスが死んだのち、突如としてマグダラノマリアの役割が重大になる。
  四つの福音書の記述はそれぞれ微妙に違うが、基本的には、
  マグダラノマリアはひとり、または他の女性たちと一緒に、イエスに香油を塗るために
  墓に行った。そして、彼女(または彼女たち)に、天使またはイエスが、イエス
  復活したと告げ、弟子たちの所に行ってそのことを告げよと命じた。これによ
  ってマグダラノマリアは「使徒に対する使徒」となったといえる。
  (これについては四つの福音書すべてに記述がある点に注意。)


・ここでいきなりマグダラのマリアが重要になるため、それ以前とのギャップを埋める
 必要が生じた。(当時はほとんどの人が文字を読めなかったので、現代と違って、
 お話はどんどん創作されたのであった……。)
 なぜ、復活の知らせは、マグダラのマリアに与えられたのか?


   ちなみに、イエスは当時としてはあり得ないほど女性と男性を
   対等に扱った。しかしそれは、普通はありえないことだった。初期
   キリスト教では女性が指導的立場に立ち、イエスの男女平等主義は
   遵守された。


   しかし正統派が生まれる二世紀ごろになると、女性は脇に押しやられ
   「性」を象徴する存在となった。


   ローマカトリックが聖職者に対して独身を課すのはようやく12世紀
   だが、独身であるべきという立場はもっと早い時期からあった。
   4世紀には、キリストの母親は処女だということにされた。
   そして、男にとって純血の理想を破るきっかけとなる女は、罪の烙印を押された。


・ここで、今日の眼から見ればなかなか独創的な解決法(さほど重要な登場人物
 ではなかったマグダラのマリアが復活の知らせを聞くに
 至るのはなぜかという問題の解決方法)が案出される。


   まず、ルカに出てくる「罪深い女」(イエスの足を涙で洗って自分の髪
   でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った女)は、実はマグダラの
   マリアなのだ言われるようになる。(ルカでマグダラのマリアが初登場
   するのはこの次の節なので、距離的にも近く、同一人物だと強弁しやすい
   条件があった。)


   しかも、その初出の時、マグダラのマリアは「七つの悪霊」を追い出して
   もらっている。わたしなどが素朴にその部分を読めば、他の婦人たちと同様、
   マグダラのマリアも病気を直してもらったと読めるのだが……。
   だがその悪霊は、性と結びつけて解釈されるようになった。


   新訳に出てくるマリアたちは、「マグダラの」以外は男性との関係
   (だれそれの息子、だれそれの妻)で同定されているが、マグダラ
   のマリアだけは地名(漁業で栄えた町)である。そのため、マグダラの
   マリアはその町で、自活していた(最古の職業だろうたぶん)という想像
   が働いた。


   「キリストの復活を最初に知ったのが娼婦だった」という説と、正統派が
   展開する「純潔を守ろうキャンペーン」がどうして結びつくのか?
   と不思議に思われるかもしれない。しかしそれが巧妙に結びつくのである。
   要するに、正統派はマグダレンに手をやいていたし、イエスの教えの調は
   謙虚さだから、「主は馬小屋で生まれることを選んだぐらいだから、
   売春婦に復活を告げることを選んだのだ」ということになった。


   しかも、ルカの「罪深い女」は単なる罪深い女でなく、改悛している。
   改悛しているというのは、感心なことである。

   さらに具合が良かったのは、マグダレンと「罪深い女」を同一視すること
   により、マグダレンというキャラクターが生き生きとし、しかもその地位
   は下がることだ。この同一視(マグダレン=罪深い女)は、三世紀から四
   世紀には成立し、六世紀には教皇グレゴリウス一世によって認可された。


   かくして新約聖書でも稀な自立した女であったマグダラのマリア
   売春婦となった。


   改悛する娼婦マグダレンはキリスト教内部で絶大な人気を博し、さまざ
   まな職業の守護聖人となっただけでなく、彼女をめぐるエピソードもどん
   どん創作されていく。


・二十世紀の芸術作品におけるマグダラのマリア(ざっとリストしておく)

 
   リルケ、ツベターエワ、パステルナークが詩を作る
     (イエスとの愛情関係が歌われるが、露骨ではない。
   ミュージカル、「ジーザス・クライスト・スーパースター
     (イエスを愛する売春婦として描かれる)
   フランコ・ゼッフェレッリのTV映画「ナザレのイエス
     (マリアが客と仕事を終えたところが描かれる)
   マーテイン・スコセッシ「キリスト最後の誘惑」
     (原作はカザンザキスの小説。マリアは幼なじみのイエス
      彼女を性的に受け入れなかったので娼婦に身を落とす。
      しかしイエスは彼女が嫌いだったのではなく、十字架上で
      彼女と寝て子供を作る幻想を見る)
   メル・ギブスン「キリストの受難」
     (マグダレンは十字架の場面で泣くだけの訳で、こういう
      のはめずらしい)


・1969年、カトリック教会は聖人のリストを見直した。
  
   このとき、たとえば聖クリストフェルなど、多くの聖人が
   リストから外された。マグダレンは、解説が書き換えられ、
   娼婦ではなくなった。



ナグ・ハマディの特徴など


   ナグ・ハマディ文書の意義をひとことでまとめれば、それ以前は正統派キリスト教
   教父たちの批判を通してしか知られていなかったグノーシス派(正統派にとっては
   最強のライバルだったとも言えるらしい)の思想を、直接的に読めるようになったこと。


   特徴的なのは、
    ・天地は(神ではなく)デミウルゴスによって創造された。
    ・失楽園のものがたりはヘビ(人類の友)の視点から語られる。
    ・マグダラのマリアが中核的役割をはたす。


   マグダラのマリアは、娼婦どころか、福音伝道の主要人物であり、キリストの第一の
   弟子なのである。そして、キリストが言うには、「罪などというものはない」
   「規則などというものはない」「人はただ自分の内面を見つめるべし」そのように
   教えてイエスは去ったので、弟子たちは、「そんなとんでもないこと(罪もなけれ
   ば規則もない)を主張したのでは、自分たちは殺される」とびびって泣きわめく。


   するとマリアは「泣いたり悲しんだり疑ったりするのはやめなさい」と言った。


   ……と書いているときりがないので(面白いけど)、たいして長くもない「マグダラの
   マリアの福音書」はどこかで見ればいいことにして(^^ゞ、私が一番衝撃的だったのは
   ペテロがイエスに向かって、「どうして私たち全員よりもあの女を愛されるのですか?」
   と尋ねたところ、イエスが答えて言うには、「盲目の人も、目の見える人も、暗闇では
   同じことだ。だが、光(=自分)が現れたとき、目の見える人は光を見るが、盲目の人
   は相変わらず闇の中にいる」だってさ(^^ゞ。


   これじゃペテロは立つ瀬があるまい(^^ゞ。


   もうひとつ興味深く思ったのは、フェミニズム的観点から見たときの、グノーシス派の
   限界。ペテロが、「マリアは去るべきです。女はlifeに値しないのですから」と言った
   とき、イエスが答えて言うには、「私が彼女を導いて男にするのです。そうすれば、
   マリアもあなたたちのようなliving spiritになるのです。男になれる女は、天国に
   入るでしょう」だってさ(^^ゞ


   もちろん問題は女性の位置づけに関することだけではない。罪も規則もないという
   グノーシス派の考えでは、国家宗教にはなりようがない。言ってみれば、正統派は
   大乗仏教グノーシス派は小乗仏教みたいなもん? ナグ・ハマディの研究者である
   エレーヌ・ペイジェルス(ちなみに物理学者の故ハインツ・ペイジェルスは彼女の夫)
   は「もしもグノーシス派が主導権を握っていたら、キリスト教が生き延びていたとは
   思えない」と言っている。

        

ナグ・ハマディ文書公開以後の動向


  毎日ちょびちょび書いていたら長くなったので、あとは省略(^^ゞ


  少しだけ書いておくと、グノーシス派の福音が知られるようになって、
  人々は新約聖書と違う話をすることを恐れなくなったという面がある
  ようだ。まあ、聖書が相対化されたわけで、キリスト教内部ではそれ
  はやはり大きなことなのだろう。


  わたしとして興味深かったのは、「ユダの福音書」に描かれている
  キリストがあんまり魅力的でなかったのと同じような意味で、
  「マグダラのマリア福音書」に描かれているマリアがそれほど
  魅力的とは言えないという点だ。


  たしかに女性の地位という点では驚嘆に値するが、
  
    従来のマリア像=「改悛する美貌の娼婦」
    グノーシス派のマリア像=「教室の最前列に陣取って、
                 ハイハイハイハイハイ、と手を上げ、
                 ひとりでしゃべりまくる優等生で、
                 目立ちたがり屋の幻視体質」


  と並べてみると、うむむ、絵画や詩の題材としては、なるほど
  従来のマリア像のほうがポイント高そう……(^^ゞ



ともかく、一連のグノーシス派の作品についてこの間見てきた感じでは、キリスト教文化圏に
おいては、反ユダヤ主義への反省、女性蔑視への反省という点で、キリスト教徒ではないわた
しなんかが想像する以上に大きなの影響があったようだ(「ユダの福音書」に関しては、今後
あるかもしれない)。



*このメモを読んで下さった方へ。
 他の日のメモもそうですが、固有名詞の整合性等、いいかげんなまま、記憶
 のよすがとして走り書きしています。そのようなものとしてお読み下さい。